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Channel: 津々堂のたわごと日録
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■元和拾年 萬覚書(49)

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                     (元和十年四月)十四日

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         |一、十四日 助二郎 道倫〇   当番 晴天
         |                    (河田)
大橋柱虫損検分  |一、大橋柱虫くい候儀、弥見せ申候様ニと、八右衛門被申渡候事
         |           (弓場)
水抜改修     |一、住江武右衛門前ゟ、ゆばへノ水ぬきしだもろくニ候間、武右衛門ニ、此由申候而、ミぞを仕候様
         |     (西郡清忠)
         |  ニと、八右衛門ニ、刑ア殿被申渡候事
         |                      (八田・築城郡)
中津領百姓娘養家 |一、辛川忠介・星野半太夫登城、 三斎様御蔵納はつ田村之百姓之娘を、戸嶋弥兵衛留守居之者養子
         |  ニ仕候、当春人戻之時、彼村ゟ書出候を、中津ニ而御理申上、相済候処ニ、当月八日彼娘走候て、
         |  親之所ニ罷居候、いかゝ可仕哉と、彼尋候へ共、談合不相済候、何もしあん候て之儀と、刑ア被
         |  申事                   (知)       (小笠原長元)
         |一、佐藤清三郎登城、親地行参度候由、民ア殿ニ而判を仕、被参候へと被申候事
蔵返シ奉行    |一、大槻久次、手前算用ニ付、蔵返シ奉行ニ、杉山伝介・片岡作大夫被申付候事
鷹下着      |一、御鷹ヲのせ罷下候由ニ而、御船頭松村久左衛門罷下候事
         |    (師)
鷹師餌差下着   |一、御鷹司大村少太夫・白鳥茂左衛門、御ゑさし罷下候事     
         |

                     (元和十年四月)十五日

         |                                           
         |一、十五日 助二郎 甚左衛門〇   当番 晴天
         |   (長柄)                                 ( 払  杖 )
三斎鷹狩     |一、御なかへノ三丞途上ニ而、 三斎様御鷹野ニ而、御小者御鷹ニはらいずゑあたり、御せいはい可
         |                     (衍)
         |  被成由ニて申候、其外御きけんよく御座候候て、御帰被成候よし申候事
         |     〃〃
大橋ノ橋材伐出シ |一、川田八右衛門登城ニ而、小倉大橋ノ御材木、中津郡大はしニ出置申候間、人遣被成、此方へ取寄
         |  申度由ニ被申候事、清右衛門心得申候由候事
         |一、米田平右衛門登城ニ而、御金山へ参申候か、御用御座候ハヽ、可承之由ニ候、
金山ノ金子受取  |一、御金山ニ、金子請取ニ遣申候人、金津助二郎・吉田三十郎両人也
鉄炮足軽ノ家火災 |一、寺本四左衛門与御鉄炮ノ者■喜右衛門と申者、同与之清右衛門家、東ニ有之を、かりて居候、夜
         |  前、火事を出し、家半分ほとやき申候事
         |                                (河喜多正直)(仁保慰英)
         |                            〇御奉行三人、 五郎右衛門・大兵衛
天守米欠立ノ談合 |一、御天しゆ米かんの事、御たて候て被遣候哉、如何可有とのたんかう、〇御たて候て可然之由ニ候事
         |         

                   


■安倍首相の痛恨事

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 来る22日には、令和天皇の即位の礼が行われ、パレードもあって東京は大賑わいの一日になる事だろう。
ただただお天気が良いことを願うものである。令和の時代は早くも5ヶ月半も経過したが、この慶事をもって新天皇も想いを新たにされることだろう。

 さて、昭和天皇の退位礼正殿の儀に於いて、安倍首相は「お二人がすこやかにあらせられることを願っていません」と挨拶した。
この事は大々的には報じられなかったようだが、参列者は凍り付いたのではないか・・・
報道統制などないと考えたいが、しかしインターネットの世界にはしっかり証拠を残している。
安倍首相の単なる漢字の読み違いだったようだが、その意味合いは真反対になってしまった。原稿には「願って已(やみ)ません」あったのを、「い(己)ません」と読んだ訳だが、文脈からして考えられず、こういう言葉が出てくるとは安倍首相も相当上がって居られたのだろう。
かって吉田茂首相は「臣茂」と言ってはばからない皇室崇敬者であったが、安倍首相も同様の思いをお持ちのようだから、この言い間違いは終生の痛恨事として記憶されることだろう。

 古文を読むと「不得已」と表記され、「やむをえず」と読む熟語として認識しているから、このような間違いに至ることはありえない。
「やむを得ず」は現代表記では「止むを得ず」とするが、文章の格式からして「已む」という表記がなされたのだろう。
当然安倍さんも事前には目を通しているだろうから、これはあり得ない、いただけない話ではある。

云々(うんぬん)」を「でんでん」と読んだのも安倍さん、麻生さん菅さんも読み間違いを指摘されたことが有る。
政治家の発言の中では枚挙にいとまがない。自分自身にも起こりうる話で充分気を着けなければと自戒している。

 

■エピローグ「清田家系図」

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 我が家の遠祖磯部氏は毛利家の家臣であった。1,500石を頂戴していたが牢人して下松に牢居した。毛利家の領地が縮小されたことによる。
元和九年の「福岡県史・近世史料 小倉細川藩」の「壬(閏)八月七日」の項に次の様にあるが、細川家の公式資料にみえる我が家にかかわる最初の記事である。

     知行高弐百石
   一、磯部長八(五)郎、此地罷居候儀、此中不存候而、何も御小〃性衆御目見えニ被罷出候せんさくニ付、しれ申候事

先祖附によると、忠興公が「江戸上下被成候時分・・」船旅の休憩のために下松に舟を止められた折々、接待申し上げたことがご縁となり、後に長五郎兄弟が豊前に召し出されることになった。
その肝煎をしたのが清田石見と云庵(槇嶋雲庵)だと記されている。
清田石見女・幾知が忠興の側室となり、宇土細川家祖・立孝、刑部家祖・興孝の生母となった。
そんなことから清田家の歴史に大いなる興味を持ち、いろいろ触れてきた。その都度私なりに系図をまとめたりしてご紹介して来た。
「五郎大夫家」の現当主興泰氏とはまさにそのブログ記事をきっかけとして、ご厚誼を頂くようになった。

最新版は8月4日の ■清田家系図に対するご指摘 である。
また当ブログをご覧になって「花久留守‐宮本次人キリシタン史研究ブログ」の宮本次人氏から、いろいろなご指摘を頂いてのものであり大変ありがたかった。

一昨日、熊本市南区富合町釈迦堂の清田邸で催された会合に出席した際、再販された「大友の末葉・清田一族」を購入してきた。
ここに清田氏がまとめられた系図が掲載されている。
実はこの系図については8月下旬に興泰氏からお手紙を頂戴して、同様の系図が送られてきており、その根拠を示されている。
このような結果が導かれたのは、清田家関係者の皆さんが多くの資料を読み解かれての集大成である。


     *邦文資料
       1、「寿閑の母は大友宗麟の娘・・」     (『綿考輯録』巻二四 289頁)
       2、「寿閑の兄は清田五郎大夫・・」     (    同上    288頁)
       3、「寿閑の妻は凉泉院で清田七助の母・・」 (『肥後切支丹史』下巻 409頁)
       4、「清田五郎太夫は掃部(鎮忠)の二男・・」(『先祖附』 永青文庫蔵)
     *欧文資料
       5、「国主は娘の一人を領国の清田殿という国衆に嫁がせており、二歳ぐらいの女の
          子がいた。親たちはその子を非常に愛していたが病気になり、我等主なるデウ
          スはその子が死ぬることを許し給うた」 (『一六~一七世紀イエスズ会日本報告集』1587年、ルイスフロイス書簡)
       6、「継嗣なる少女・・」と、また「清田殿の長女」と書簡に記される子は同一人物と思料される。
                             (『前掲書』1580年、ロレンソ・メシヤ書簡)
       7、「彼等(鎮忠とジュスタ)には男の子がなかったので、ドン・パウロ(志賀親次=竹田・岡城主)の兄弟である
          ドン・ペドロ(志賀浄閑、後の清田寿閑)を養子にした」
                             (『前掲書』1586年、ペロ・ゴーメス書簡)
      そこで右の資料を整理すると、1と7から寿閑の母は志賀家に嫁した宗麟の娘だったことが知られる。
     因みに宗麟には五人(六人とも)の女子があり、清田鎮忠・久我三休・志賀親度・奈多鑑元・臼杵統尚・小早川秀包にそれぞれ嫁している。
      次に、2と6、そして7から寿閑の妻凉泉院は五郎太夫の妹と理解される。つまり6の継嗣なる少女(清田殿の長女)は、後に7の
     寿閑を婿に迎える訳だが、2で寿閑の兄は五郎太夫と記せるからには、凉泉院は五郎太夫の妹と云うことになろう。
      ところで、当の凉泉院だがジュスタと鎮忠の子とする史家もいる。その根拠は両人の再婚時期を1575頃とし、凉泉院の生年を
     1578~9年としている。何故なら1578年に二歳の子(姉)が亡くなっているからである。
      しかし凉泉院は夫寿閑との間に1589年、長男七助(後の石見鎮乗)を生んでおり、彼女の生年を1578~9年とするのは母子の
     年齢差からみて当らない。つまり凉泉院の生年はそれ以前でなければならない。また凉泉院をジュスタの連れ子マダレイナとす
     る説もあるが、これとて周辺証拠に矛盾があり成立しえない。
      次に1578年二歳で亡くなる女子の両親についても諸説ある。例えば彼女は親たちから非常に愛されていたことを理由にジュス
     タと鎮忠の子とする説。またジュスタと前夫一条兼定とする説。更には鎮忠の前妻の子とする説である。そしてこれらの節の根
     拠は主に欧文史料に負うものであって、符号(ママ)する邦文史料は未だ見ない。ところが臼杵市の芝尾に次のような石祠がある。
      碑文には天正六年(1587)、泰政公(兼定)の姫君霊とある。つまりこの姫君こそ二歳で亡くなった女の子ではなかろうか。
     さすれば、彼女の両親は明白である。以上をふまえ、ドン・ペドロこと鎮乗寿閑と清田宗家の関係は次のように示すことができよう。

           
        +------鎮隅
 一色殿娘   |
   ‖---------+------五郎大夫
   ‖      |
   ‖    +------凉泉院
 清田鎮忠       ‖---------+-----七助(石見)
   ‖ 再婚     鎮乗寿閑  |
 ジュスタ     (志賀家より養子 +------吉(幾知)
   ‖                     ‖---------+------立孝
   ‖                細川忠興   |
   ‖                       +------興孝
   ‖---------+------マグレィナ 1927殉教 後列福
   ‖      |
   一条兼定   +------少女二歳亡 (註・欧文史料5を根拠に鎮忠の子とする説あるも、石祠の兼定説を信じたい)

 ここまでの成果を上げられたことに敬意を表したい。100%の答えが確定したわけだが、新出の史料でもない限りこれ以上の結果は導かれないかもしれない。私はこれをもってエピローグとしたい。

■元和拾年 萬覚書(50)

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                        (元和十年四月)十六日

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         |一、十六日 甚左衛門〇 道倫〇  当番  半晴
         |
火事場ノ盗賊ノ詮 |一、高野徳右衛門よひニ遣、被仰置候、町中火事之時、物取入候間、其物取をあらため候様ニと、被
索        |           (是門)
         |  仰■付候、就其、米田與右衛門ニ委被 仰置候間、参候而、可相尋由之事
         |              参候
老女志賀     |一、鏡善右衛門ニしか殿ヲくりニ参候へ、御船被申付候、大石長右衛門、奉行ニ被申付候事
         |              〃〃〃〃 〃
         |
走リシ小者ノ請人 |一、御小者頭登城ニ而申候、京吉田ニ而、御小者一人はしり申候、請人遠坂越後殿ニ居申候間、相届
ヲ入牢セシム   |  可申由申候事、可然候之由ニ候事、則、請取、ろうへ入申候
         |       〃
         |  (黒崎)      (西村)
筑前ヨリノ走人紺 |一、くろさき口御番善兵衛登城、ちくぜんゟ一人走り参候、こんや仕度由申候、則、町御奉行へ相
屋業ヲ望ム    |  渡候事
小笠原長元知行所 |一、矢野利斎登城ニ而、民ア殿知行たね米ノ儀、談合ニ而、御郡■御奉行木村九郎■衛もくろく、
ノ種子米     |  利斎へ被相渡候事                         ヲ
金山諸奉行小屋修 |一、沢路吉右衛門登城ニ而、御金山はかり急出来仕候様ニ、諸奉行小屋立なし申候間、ふしんノ者被
築願       |  遣候やうニとの事ニ候
入牢ノ判ノ決裁  |一、神西長五郎を以、京ゟ御小人走申ニ付而、其請人ヲ籠者可申付候間、籠へノ判形被成候へと、被
         |  申越候へバ、此中成敗者も、穿鑿之事も、此方へ不被申届候条、判形仕間敷由御申候、重而、米
         |   (是友)             右ノ子細ヲ
         |  田甚左衛門・神西長五郎を以、被申越候事                (米田是門)
新銭ノ談合    |一、松屋道二登城、新銭ノ儀、何も先日御談合之如ク可被仰付哉と、被申候へバ、米與右衛門殿へ、
         |  八つうち候而後出、談合可有由之事
         |
         |     (ママ)
田川郡奉行免相成 |一、田川御郡林與兵衛・臼杵半左衛門登城ニ而、田川免相之儀成難候、七年免之如ク仕、去年之御加
リ難キヲ申ス   |  損米、彼是ヲ取置候而入れ候而、御取立可難成候、惣而、私等両人ニ而ハ可難成候間、可成と申
         |        〃〃〃〃
         |  仁ヲ被仰付候は、其人ニ随ヒ、催促可申由之事
         |
          

■病院行き

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 血圧と血糖の薬が切れた。朝から病院行きである。いつも30日分の薬をもらうために、定期的に診察を受けたり、血液や尿の検査を受ける。
処が今回は40日ぶりである。計算が合わないのは薬の飲み忘れがあるからだろう。10日も忘れたことはないと思うのだが・・・
さて前回の検査結果、「γ-GT」値が71と高くなり酒を控えるようにとのご託宣である。血糖値は116、LDLコレステロール値が188と相変わらず高い。
最近体重も増えて摂生しているのだが・・・。
クレアチン1.18と高いとの指摘だがどういうこと?腎臓が痛んでいるの?
血圧は薬のお陰で安定はしているものの「上が高い」、時折150を超える数字が出るが、昔の180超えからすると私的にはまずまずの状態との理解である。
心臓も少々具合が悪いそうだし、小脳が小さくなっているとかで道を歩くのにふらつくのはそのせいだという。
それでもしっかり運動をするように、お酒、甘い物、塩気、炭水化物を控えるようにとのご託宣である。

又、先日の会合に出かけた折、二時間ほど和室に座った。
あぐらを組んだり、時には足を投げ出したりまでしたのだが、以来左の股関節が痛くて仕方がない。
それでもめげずに散歩に出たり、図書館までくたびれ自転車で出たりしているのだが、自転車同様足回りもがたがたである。
PCをたたくのに、椅子の高さをいろいろ工夫しているが、時折股関節が悲鳴をあげ、余りの痛さにギャッと声を上げて立ち上がって奥方を驚かせている。

内科的にも外科的にも身体がたがたになり、いろんなことが思い出せなくなり、本格的爺になったな~と痛感する。
メールの返事を忘れ、手紙を出すのを忘れ、図書館へ出かけては資料のコピーを忘れ・・・いかんですばい。

■老女「志賀」殿

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 昨日の■エピローグ「清田家系図」には、清田鎮忠が娘・凉泉院の聟として迎えた鎮乗寿閑も紹介した。この人は、豊後竹田岡城主の志賀親次の弟である。

同じく昨日の■元和拾年 萬覚書(50)の四月十六日の記事の中には、「一、鏡善右衛門ニしか殿ヲくりニ参候へ、御船被申付候、大石長右衛門、奉行ニ被申付候事」とある。
頭注には「老女志賀」とある。

ふと思い当たることが有った。細川家家臣に「志賀太郎家(南東51-19)」があるが、祖を「虎左衛門」とし、初代を「少兵衛・親勝」とする。
虎左衛門とは親次の事であるが、ウイキペディアでは「湖左衛門尉(通称)」と記す。「こざえもん」と読めるところは共通している。
私の「新・肥後細川藩侍帳」では、引用元を記していないが、「豊後国岡城主・没後後家(室・大友吉統妹)女子一人、男子一人介抱仕・・・御国菊池郡源川村落忍・・・・加藤家ニ奉公(女之法)」と紹介している。
つまり、親次の没後後家となった奥方は、女子一人・男子一人を連れて肥後国菊池郡源川村に落ち忍び、のちに加藤家に奉公して「女の法」(奥における行儀作法)を教えたという事であろう。
初代・少兵衛についても、「加藤忠広御代新知二百五十石、加藤家改易にあたり浪人、細川家肥後入国時沢村大学方より御連」とあり、二百五十石を拝領している。

加藤家に仕えた志賀親次の奥方が、のちに細川家に入り老女・志賀殿となったのではないかと考えたが、加藤家の改易は寛永九年であり、遡る元和十年(寛永元年)に細川家に居るはずがなく、早合点してしまったようだ。
親次は大友氏の改易にあたりも自らの所領を失った。「その後は、蜂須賀家政に仕え日田郡大井の荘一千石を領有し、関ヶ原の戦いの際には九州で大友義統に石垣原の戦いに支援、のち福島正則小早川秀秋(九百五十石)、再び福島正則、毛利輝元にそれぞれ仕えた。」(ウイキペディアより)
そして万治3年(1660年)現・宇部市で95歳で(一説93歳)で死去している。
奥方が後家となって加藤家に仕えたという「細川家家臣・志賀氏」にある説明は成り立たなくなる。

大友宗麟の血を引く女性の苦難が見えて痛々しく思える。

■史談会資料準備中

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 今回の史談会では、徳川幕府の裁断により罪を得たいわゆる配流の処分を受けた事件三件を取り上げることにした。
三件の人々は細川家が預かったものである。
         最上家騒動による楯岡光直の配流
         家光弟・徳川忠長の改易切腹に伴う連座の罪により、家臣伊藤権兵衛、同稲葉正利(春日局二男)の配流
         越後騒動による小栗美作(切腹)の弟・兵庫(伊豆大島遠島)の幼子・四人の配流
これ等の資料を、ここ三日ばかりバタバタして準備している。
昨日は図書館へ走り、その後史料が漏れていることが判り、その記事が「新・熊本市史」に掲載されることが判明。
今一度図書館へ走ろうかと考えていたところ、近所に或るコミュニティーセンターが所蔵していることを思い出し、借り受ける。
記事を確認して、原稿のタイピングの修整や、史料を切り貼りして都合13枚の原稿がようやく完成する。
いまからこれを20部程コピーして、ホッチキス止めをすれば一件落着。

先日図書館である会で講師を為さっているH氏にお会いした中で、「史料の準備が大変ですね~」と申上げたところ、「大変は大変だけど、これを読み返して勉強していくと、誰よりも一番の知識が得られますよ」と仰る。
誠にそうだと思うし、そう考えると資料の準備もまた楽しからずやではある。
終わった処でコーヒーを飲んで、このブログの書き込み・・・さて昼飯くって又頑張ることにしましょう。

■元和拾年 萬覚書(51)

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                          (元和十年四月)十七日

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         |一、十七日  道倫〇 甚左衛門〇  当番  雨
         |                             (泰厳寺)
泰厳寺ノ破損ハ三 |一、川田八右衛門登城ニ而、中津ゟ、坂崎加兵衛此地へ被参候、大かん寺そこね申候由、 三斎様御
斎ノ知ル所    |           (景広)           (長元)  
入費ハ構ハズ   |  見々に立申候て、村上八郎左衛門・小笠原民ア殿御頼被成候間、いかほと御ざうさノ参候儀ハく
         |  るしからす候間、御繕被成候由、被仰越候事、        (沼田延元)    (主膳、衛則カ)
人返シ解決セズ  |一、山田次右衛門、中津ゟ状ヲこし申候、人かへしノらち明不申候、長岡勘解由殿・谷しゆぜん殿、
         |                    (上毛郡)
盗人       |  両人之者ノ儀ニ付、ぎんミ御座候、又、八屋村ノ御百性、 三斎様御れう分へぬす人に入、ぬの
         |  こ取、中津ノ町ニ、しちニをき申候ヲ、見合申候由申候、志水次兵衛ニ申候由承候、次右衛門ニ
         |  ハかへし申候由、見へ申候由、申来候事
鉄炮試射ノ奉行横 |一、小崎與次兵衛ニ御申付候、御てつほうためし申候御奉行御申付候、御横目一人被仰付候て、可被
目任命      |  下由ニ候事
         |
上毛郡奉行報告  |一、吉田も左衛門・岩崎太郎兵衛登城候而、中津御蔵納上毛郡河原田村妙心・弥市・弥十郎と申御百
盗人盗品ヲ入質  |  性之家へ、四月四日之夜ぬす人入、種々物ヲ取出、しれ不申候処ニ、中津博多町町人所ニ、ぬの
         |  こ三つ、しちニ置申候、其札ニ、八屋村三七郎と書付候ヲ見、しれ申候由、中津蒲田久左衛門、
         |  志水次兵衛へ書物上ケ候ニ付而、右之郡奉行被付候ヲ、御奉行所へ持参仕、被申候ハ、彼三七郎
妻弟ヲ■置ク   |  ハ日田へ商ニ参候、其女房・弟両人候ヲ■置候由、被申候事                  ■扌偏に乄=締
         |                   ( 乞食 )                        (嘉麻)     (上毛郡)
鉢ひらき坊主筑前 |一、きうしんと申はちひらき坊主、筑前へこつしきに参候へバ、かま郡の内ゟ八屋村ニむすめ両人御
へ乞食ニ行クニ母 |  座候母、其むすめニこ袋壱つ言伝候ヲ、持届候へバ、八屋庄やハ留守ニ而、其女才覚ニ以而、彼
ヨリ娘へ言伝サル |                          如此之由、     御奉行衆
庄屋女房坊主ヲ捕 |  きうしんヲとらへ、小倉へ引出候、右両人之御郡奉行〇被申候ヘハ、然は民ア少輔殿へ被参、右
へ小倉へ引出ス  |  之子細被申上候へと、被申渡候事
         |        (小笠原長元)(米田是門) (矢野)
         |一、右之きうしん、民ア殿・與右衛門・利斎登城候而、惣談之上、こつじきニ而、言伝物持参仕、各
         |             (山内)        (ママ)
乞食坊主ハ国払  |  別無之ニ相極、惣庄や大進、御郡吉田茂左衛門・岩崎太郎兵衛ニ被仰聞、御国中ヲ被払候事
         |一、古市村與三左衛門儀、重而惣談可有由ニ而、延候事
新銭諸人迷惑ニツ |一、新銭之儀、人々迷惑仕候由ニ候条、可得奉御諚ニ相究候事
キ御ヲ得ム    |
筑前ノ紺屋走来ル |一、筑前ゟこんや壱人走来候、民ア殿・奉行衆判形ニ而、御籠被申付候事
シ小人入牢    |                  明石源右衛門
抜刀ノ百姓ヲ逮ウ |一、沼山ニ而、刀ぬき百性とらへ来候者■■小頭網田左兵衛預り可申由、申上ニ付而、右之衆と御惣
         |  談ニ而、預ケられ候事
         |


■有難いアーカイブ史料

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 最上騒動の一方の主役楯岡光直についていろいろ調べる中で、国立国会図書館のアーカイブス「楯岡甲斐守光直と其の子孫」の存在は大変ありがたかった。
光直が小倉に於いて死去する中で、細川家は熊本に転封、光直の嫡子・孫市郎は細川家に随伴して熊本入りしている。
そして1,000石を拝領するとともに座班に於いても七人着座の四番目に召しおかれるなど厚遇されていく。
孫一郎の子が最上一族の山野辺氏の養子に入ったことは承知していたが、名前が判らずにいた。水戸徳川家の家老となった山野辺家である。
上記アーカイブスで忠清という名前が確認されるとともに、孫一郎の嫡男であることも判明、熊本の楯岡家は二男が跡継ぎしていた。
冊子自体はもう入手は不可能であろうが、こうして簡単に確認できることに大いに感謝である。
プリントアウトして冊子仕立てにしようと思っている。

■徳富蘇峰・髪塚祭のご案内

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■蒙古襲来絵詞・白描図、「天草の戦国時代展」に展示さる

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 熊本史談会会員・大矢野種康氏所蔵の「蒙古襲来絵詞・白描図」が、「天草の戦国時代」展(10月19日~12月28日迄、天草市立本渡歴史資料館)に展示されます。
尚、11月30日、13:30~15:30に大矢野誌による、ギャラリートークが催されます。

                  

■元和拾年 萬覚書(52)

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                          (元和十年四月)十八日

         |                                           
         |一、十八日  助二郎 甚左衛門〇  当番  曇
         |
びいどろ青白ヲ下 |一、下関へ、びいどろかいに、森次兵衛・栗田與兵衛、両人遣候、但し、ひいとろハ六斤、内三斤ハ青キ・三斤ハ白キ
関ニ購ハシム   |                          (財津)
宇佐郡惣庄屋入牢 |一、財津久七登城、宇佐郡山本少左衛門籠者被 仰付候、■■■右衛門尉・惣左衛門知行之内、少左衛
未進       |  門作仕候、此未進大分有之ニ付、久七書物持参仕候へ共、理立申間敷通被申候
入牢中ノ病人ニ投 |一、不破忠左衛門者、籠ニ而相煩候ニ付、寿閑薬用させ候事
薬        |
         |       (須古)現・杵島郡白石町       (黒崎口)       (西村)
肥前ヨリ走来ル者 |一、ひぜんノ国すこの村ゟはしり参候三吉と申者、くろさき口ノ御番善兵衛登城ニ而申候、則、民ア
         |  殿へ召連参候事
         |  (由布院)
由布院幕府蔵米  |一、ゆのゐん上殿御蔵納御米ノ儀ニ付、民ア殿ゟ、井上十右衛門と申御舟頭ニ、状持被下候事        
郡役ノ麦ハ三斎領 |一、御郡へ御かけ被成候麦之儀、 三斎様御蔵納御百性出作仕候者ニハ、少之儀ニ候間、懸ケ申間敷
ノ出作百姓ニハ課 |  惣談候事
セズ       |
         |                       

                       

■元和拾年 萬覚書(53)

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                          (元和十年四月)十九日

         |                                           
         |一、十九日  道倫〇 甚左衛門〇  当番  曇
         | (高月、規矩郡)                  (黒崎、御牧郡) (之房)
井上之房ノ馬乗毛 |一、筑前口人留の御門番尾藤新助登城ニ而、くろさき井上周防者馬乗ノせかれ毛利弥兵衛せかれ主膳、
利某忰走リ来ル  |  十五、六斗なる者走来り候、町人休庵と申者之女ノ親類之由申候、則、民ア少殿へ召連可参由、
         |  被申渡候事
         |    (氏久)                        (政三)
薮政三ノ新田小作 |一、田中猪兵衛・山村與右衛門、両人被参申候ハ、藪三左衛門新開御座候を、與右衛門作申候、則、
古作ハ中津領上地 |  中津御奉行衆へうかゝい候ヘハ、古作之分ハ中津御領へ上地二被成候、真ひらきハ小倉御領之儀
新田ハ小倉領   |  ニ而候間、御かまい無之候由、御申候間、あらし申儀御ために成不申候間、與右衛門作可申候、
荒起シニ日雇ヲ備 |  左様ニ候ハヽ、たね之きハ與右衛門取かへ申候、あらをこし仕候儀、日用をやとい申候間、御米
ウ借米ヲ願ウ   |                御奉行衆  
         |  少御借被下候やうニと申候、則、〇三石ノさしかミニ判被仕候
筑前ヨリ走来ル井 |一、右筑前ゟ参主膳、休庵親類ニ而ハ候へ共、此地ニかゝへ候儀、不罷成由ニ而、下関へ遣之候由、
上之房馬乗ノ倅主 |  遂目安候事
膳ヲ下関へ遣ス  |
         |                                Inoue Yukihusa.jpg

                                          井上 之房は、筑前黒田氏の家臣。
                                          黒田二十四騎、黒田八虎の一人。
                                          通称・九郎右衛門。

■にわかフアンですが・・・

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 ラグビーワールドカップ、ベスト8入りした日本だが、圧倒的な体力とスピードを持った南アフリカに、一敗血にまみれてしまった。

かって国立競技場で最後の早明戦の試合が行われた時、荒井由実が登場して「ノーサイド」を熱唱したことが報じられて、当時話題になったことが有った。歌詞をみるとまさにラグビーの世界を豊かに歌い上げている。男たちが涙していたことを思い出す。
そんなシーンをみてから、もうそろそろ九年になる。
世界大会が日本で催されるについて、男たちの熱い思いは火の玉になった。突き破ることのできなかったベスト8の壁を破り、さらなる高みを目指す男たちの夢は途絶えたが、またと「かぐことの出来ない風 深くすった」ことであろう。
目を輝かせて試合を追った子供たちが、またあの楕円のボールを追ってたゆまぬ努力を続けて、次のシーンの主役となってくれるだろう。
スポーツの持つ連帯感や豊かなメッセージを、にわかフアンの爺様にもしばし体感し豊かな気持ちにさせてくれた。
準決勝・決勝へと希望を託してボールを追い、一歩でも前に進もうと大男たちの躍動はまだつづく。最後のノーサイドまで声援を送ろう。
素晴らしい球技、紳士のスポーツに感謝。


■元和拾年 萬覚書(54)

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                          (元和十年四月)廿日

         |                                           
         |一、廿日  道倫〇 助二郎  当番  雨天
         |    (辰珍)
公用ニヨル欠勤ハ |一、津川四郎右衛門御申候、菅村和泉宇佐へ参候、此御番替りを可被申付哉との儀ニ候、乍去、公用
番替リヲ容セズ  |   之儀ニ被参候条、不苦儀ニても可有之哉と御申候事
         |
加子水入リヲ拒ム |一、かゝミ善右衛門登城、石川甚右衛門預りノ御加子、す入を仕候ニ付、大橋虫くいを見ニはいり候
         |  へと申付候ヘハ、彼與三右衛門と申候加子申候ハ、す入ノ御奉公ニハ不罷出候、御加子ニこそ罷
抜打ヲ怖レ逃ゲシ |  出候と、りくつを申候故、ぬき打ニ可仕と、善右衛門仕候ヘハ、にけ申候、御奉行衆へ談合仕候
加子ヲ捕エシム  |  ヘハ、からめ候へと被申渡、からめ申候事
         |

                          (元和十年四月)廿一日

         |                  (晴)                                  
         |一、廿一日  助二郎 仁左衛門〇  当番  清天
         |     (春木)                                 (ママ)
札取       |一、御金山與吉所ゟ、札取申つけ書立参候、呼野・さいとう所・ごとく 三所の
         |
宇野七右早飛脚参 |一、国東、宇野七右衛門所ゟノはやびやく、何も廿日七つ時ノ刻付、廿一日ノ五つ下刻ニ参着申候事、
着        |
六十丁立ノ船ノ幕 |一、福田吉介・佐分利又四郎ニ、六十丁立ノ御舟まく奉行被申付候、きり・九ようを付ケ、むらさき
桐九曜紋付ノ紫染 |  ニそめ候事
         |         (広浜)
江戸ヘノ使小人  |一、江戸ヘノ御使、ひろはま少右衛門御小人、上下弐人被遣事
         |
宇佐郡奉行野間次 |一、野間次左衛門替野儀、かは田次左衛門・富嶋弥兵衛・みの田甚丞・近藤長四郎・野瀬吉右衛門・
左ノ公認選定   |                                      (指図)
         |  小崎與次兵衛・中間市大夫・財津久兵衛・上村甚四郎、右之衆之内、何ニ而も御さしス次第ニ可
         |  申付、得御諚申候事
筑城上毛郡ノ代官 |一、ついき・上毛ノ御代官、中津不参、此替之事、御諚得申候事
中津へ不参    |
         |



■お安く読む・除籍本「殿様生物学の系譜」

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 写真の如く「除籍本」です。私の歴史の師匠・Dr高田先生は、「本は読めればよい、新しいとか古いとか、書き込みがあるとかないとか関係ない。金を懸けず史料を得て一生懸命詠むことだ」といわれた。
私の本棚には除籍本が結構ある。除籍本だといろいろ書き込んだりするのもあまり気にせずにやれる。

この本の内容は「日本の博物学・生物学の発展は、数多くの大名・華族・皇族たちが担ってきた。「偉大なアマチュア」から「世界的な研究者」まで、近代科学史に残るさまざまな足跡をたどる。」とある。
当然ながら細川藩主・重賢公の事も書かれているようだ。手元に届くのが楽しみである。

■元和拾年 萬覚書(55)

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                          (元和十年四月)廿ニ日

         |                                           
         |一、廿二日  道倫〇 甚左衛門〇  当番  朝曇
         |
大橋ノ橋材山出ヲ |一、河田八右衛門登城候而、橋之板財木取候儀、町人役ニ被仰付候、然は、香春ゟ小倉迄、六里之間
町人ニ命ズ    |  ヲ町人ニ被仰置候、又、山ゟ香春迄は三里ニ而御座候条、三里之山出ヲ、町人出シ可申と申候は、
         |  其分ニ被仰付可被下由之事、奉行衆、町奉行と惣談可有との事
         |                       御加子
船頭惣奉行鏡善右 |一、鏡善右衛門登城ニ而被申候、主手前手伝ニ被置候上田十三郎と申者、今度御舟頭ニ被召上候、其
ノ手伝加子ノ後任 |                                  (松本)(栗野)  
ノ採用扶持分   |  替りニ、御加子召置申候間、かの者ノ御扶持方被仰付可被下候通ニ書付、彦市・伝介方へ被渡候
         |  事                  (国東郡)          被
古市村孫三ノ糺明 |一、村上久太夫・入江猪右衛門、両人ニ申付、ふる市村孫三きうめい可申付候事
         |           ( 慮  外 )  
         |一、右之善右衛門被申候りよくわい仕候御加子 昨日ニもせいばい可仕と存候処ニ、御舟頭衆みな/\
         |  〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃 〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃 〃〃〃〃〃〃〃〃
         |                     ニハ
         |  取付 わびこと被申候ニ付 其分ニ仕置申候如何可仕やと 御奉行衆へ被申候 以来之見せしめノ
         |  〃〃 〃〃〃〃〃〃〃〃〃 〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃 〃〃〃〃〃〃〃〃 〃〃〃〃〃〃〃〃
         |  所ハ申付候条 此度ハ御舟頭衆へたいし ゆるされ候ても可然由 御申候
         |  〃〃〃〃〃〃 〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃 〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃 〃〃〃
         |             イ                                                                                            御奉行衆も      め
船頭惣奉行ニ慮外 |一、鏡善右衛門ニりよぐわ仕候御加子、御舟衆ミな/\わびこと被申候へ共、 〇以来之見せしノ儀ニ
ヲセル加子ヲ成敗 |                   (小笠原長元) 右
セシム      |  而候間、せいばい可被申付由ニ候間、民ア少殿ニも相尋候へバ、右之分ニ御申渡シ候事
以来ノ見セシメ  |
         |一、古市村與三左衛門尉小者孫三糺明仕候へバ、右之口同前之由、村上久太夫・瀬崎猪右衛門尉被被申
         |  候、御奉行衆弥々穿鑿仕遂ケ候而、民ア殿可申由之事 
         |     

■元和拾年 萬覚書(56)

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                          (元和十年四月)廿三日

         |                                           
         |一、廿三日  道倫 助二郎  当番  朝曇 晩雨
         |
沼田延元上洛ニツ |一、勘解由殿ゟ使、来ル廿七日ニ可罷上候間、冣前御惣談候て、御米借可被下之由候間、弥御かし被
キ借米加子ノ願出 |                   (ママ)  
         |  成候様ニとの儀、幷御加子廿八日やとわかし被成候而可被下之由、是又、右ニ御談合相極り候間、
         |              (案)  (河喜多正直) (仁保慰保)
         |  弥頼入候通、御米借状之安帋、五郎右衛門・太兵衛ゟ被渡候事
         |
金山小屋等ノ普請 |一、御金山小屋、其外ノつくろい普請奉行ニ、御鷹師ノ志加與三右衛門・高瀬勘兵衛、両人被申付候
奉行ニ鷹師ヲ命ズ |  事
         |
五徳金山地割山廻 |一、五徳御金山地わり山廻りノ奉行ニ、渡長右衛門・坂本勘兵衛、両人明日参候へと、被申付候事、
奉行任命     |
         |  (規矩郡)
採銅所金山地割山 |一、採銅所御金山地わり山廻り奉行ニ、田辺作介罷居候、此替りニ、山崎伝丞明日参候へと、被申付
廻奉行任命    |  候事
         |
餌差雲雀捉リニ諸 |一、御餌指ひばりを取候儀、当御郡はかりニ而ハ不辨候間、よの御郡へも可遣通、河合権丞申候、左
郡へ遣ス     |  候ハヽ、ひばりニ塩仕候者、御小人吉蔵被申付候事
塩漬ニ小人    |      由
沼田延元上洛療養 |一、長岡勘解殿御煩ニ付而、御上洛候ニ、米五十石、惣談之上にてかし被進候事、御上洛ハ今月廿七
ニ貸米五十石   |  日之由、惣右衛門申候事
         |一、河喜多五郎右衛門・仁保太兵衛、手前御奉行衆へ手前切手判形相済不申候間、片付可被仰付由、
         |  彦市・伝介申ニ付而、今日相談可有之由之事
         |
台所賄算用ノ滞リ |一、御桧物屋新助・同又右衛門・沼次左衛門・林與兵衛御台所賄候、切々算用今ニ滞り、迷惑仕候由
         |  申ニ付而、五郎右衛門ねヲ被存由申候間、可相尋由、被申渡候事
         |

■PCの不具合

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 PCの不具合で少々いらついています。数日前からサクサク動かなくなり、それでも何とかブログを書いていましたが・・・
まずは手っ取り早い処でアプリの削除にかかりました。一つ一つ確認しながらの作業ですから爺は疲れてしまいます。
相当量の使わないアプリを削除して、ブログの文字変換もなんとかスムーズにいくようになりました。
写真やメールなどのデータもUSBに移し替えようと思っています。すべてが歴史ですから横によけるのも気になる所ですが・・・
しかしいらついていては健康によくありません。もう少々長生きしたいと思う爺です。

■元和拾年 萬覚書(57)

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                          (元和十年四月)廿四日

         |                                           
         |一、廿四日  助二郎 甚左衛門〇  当番  曇 
         |
         |               與三左衛門
成敗セシ加子與三 |一、鏡善右衛門登城ニ而、御加子〇さいはい仕候跡ノけつしょ物、小ワキざし壱こし御座候、其外ハ
左ノ闕所ノ品   |  何も無之由、被申候事
銀子壱貫目ヲ金山 |一、御金山ノ御用ニ、銀子壱貫目、佐藤安右衛門・春木與吉ニ被渡候事
奉行ニ渡ス    |
         |  (小笠原長元)              (継)
中津へ継飛脚遅参 |一、小民ア少ゟ、去十一日ニ、中津へ次飛脚進上被申候処ニ、遅参着仕候儀、せんさく被仕候へと、
ノ詮議      |  御郡奉行衆へ可申渡之由、先今日、宮部久三郎ニ被申渡候事
古市村與三左ノ懸 |一、古市村與三左衛門かけ硯、小林半左衛門持参、内ヲ被見候へとも、やくニ立申書物、一つもム御
硯ノ検分     |  座候事
右借状      |一、右與三左衛門籠仕候時、ふところニ有之道具、幷ニ袋有之物取寄せ、被見候処ニ、古借状共御座
         |  候事
         ¦             (道祖ノ原)               九   (玖珠)
人ヲ売リシ両名ヲ |一、木村九郎兵衛登城、下毛さいの原ノ孫三郎・藤木村ノ與■郎、くすへ人うり申候儀、弥必定ニ而
成敗       |  候間、成敗可仕通被申候、左候ハヽ、妻子ハあかりものニ成候段、被申渡候事
妻子ハ上リ物   |                                    (領分)            (散々)   (八付=磔)
         |一、八屋村三七郎 三斎様御れう分へ ぬす人ニ入 さんさ仕 はつつけにかけ可申由 民ア殿
         |  〃〃〃〃〃〃 〃〃〃〃〃〃〃〃 〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃 〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃 〃〃〃
         |  御奉行衆談合被申候 八屋村ニはつつけニかけ可申由 被申渡候 〇上辺ニ横ニ書込アルモ、消去ス
         |  〃〃〃〃〃〃〃〃〃 〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃 〃〃〃〃
         | 

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