米田是庸は世襲家老・米田家(賜長岡姓)の五代目(求政を初代とし)当主である。
母は米田是長女・吟であり父は細川忠利の末子、長岡(南条)元知である。
父・元知は寛文九年(1669)十月、藩主・綱利の陽明学徒追放にあたり、これに反対して極諫し綱利の怒りを買い永蟄居の処分を受けた。
翌年には屋敷まで召し上げられている。
是庸(勝千代)は延宝五年(1677)十一月、命により外祖父米田是長の養子となって米田家を継いだ。若干15歳である。
父の永蟄居から8年、勝千代の成人を待っての綱利の計らいとも考えられる。
熊本藩年表稿は「長岡監物の外孫三渕勝千代(実は長岡元知の嫡子)を監物の養子とし、監物を隠居させ、勝千代を長岡監物是庸と称させ家老に列す」と記す。是庸は寛文三年(1663)の生まれだから、父の永蟄居処分の頃は7歳である。どうやらこの時期三渕家に引き取られたらしいが、このことについては三渕家の系図では確認できないし、私はこの記事を読むまでまったく知らなかった。
父・元知の永蟄居処分がとけたのは元禄10年(1697)9月のことである。綱利が元知の家を訪れている。28年の時が流れていた。
是庸は綱利の子・吉利附きの老職を勤めたりしている。
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■三渕勝千代→米田是庸となる
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