先に■今一つの米田家のお墓 で米田家の是季・是長・是正・是長女吟・是長の養子となった是庸のお墓が大津市坂本の西教寺にあることを知りご紹介した。
昨日、米田家の系図を詳しく読んでいたら是季の父・助右衛門是政夫人雲仙庵が、遺言によりその西教寺に葬られたと記されている。
没年は慶安三年五月十六日である。その八年後、息・是季が亡くなっている。
是季が細川家を出奔(慶長12年=1606)し、元和8年(1622)帰参するまでの16年間、一体どこに住んでいたのかという疑問がずっと在った。
一時期この西教寺に身を寄せていたのではないかという話がある。
雲仙庵がこのお寺に埋葬するように望んだ理由は何であったのだろうか。雲仙庵は「明智日向守室ノ兄弟ノ子」と系図には記されている。
西教寺の説明に「元亀2年(1571)織田信長の比叡山焼き討ちの際、当寺も災禍を被りました。
その直後に築かれた坂本城の城主となったのが明智光秀でした。光秀は西教寺の檀徒となり、復興に大きく力を注ぎました。総門は坂本城城門を移築したもので、鐘楼堂の鐘は陣鐘です。天正10年にこの世を去った光秀は6年前に亡くなった内室熙子や一族の墓とともに祠られています。」とある。この辺りにヒントがあるような気がしているのだが・・・?
明智光秀室・妻木煕子の墓
真賀法印関係略図と米田家系図をまとめてみた。
+ーーー●名不分明 飯岡肥後宗信室
| 細川忠利末子
+ーーー●チヨ 牧 興相室 長岡元知
| ‖ーーーーーーーー是庸
+---●コヤ 乃美主水景尚室 +ーーー 吟 |
米田助右衛門是政 | | ↓
‖ーーーーーーーーーーーーーーーー+---是季ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー+---是長ーーー+========是庸
真賀法印---+---●アン(雲仙庵) | |
| +ーーー●フク 波々伯部八左衛門室 +ーーー是正
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| +ーーー●ナツ
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+---●野々口丹波室 此子野々口又之允正保年中當御家ニ被召出候
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+---某 比良内蔵助ーーーーーーーーーー比良太郎兵衛
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+---●シモ 入江兵衛尉室 秀林院様御側ニ■勤御遺言承り候、入江傳右衛門母なり
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+---某 以斎坊 後還族
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+---某 喜斎坊 後還族ーーーーーーー●コウ 毛利藤兵衛ニ嫁ス
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+---某 田中官兵衛 後号通安