先にヤフオクで手に入れた「宇土細川氏藩政関係歴史資料調査報告書(二)」から、次の様な事実をキャッチした。
「安政四年(1857)一月十五日、細川澄之助(護久)宇土よりの養子願を断る」とある。
私の知りえなかった情報で、改めていろいろ資料を眺めているが本藩資料では伺えないものである。
澄之助は齊護の三男であり、天保十年(1839)三月朔日熊本花畑邸で生まれている。当時19歳である。
長兄・慶前は嘉永元年(1848)23歳で死去している。次兄・六之助が嫡子となり慶順(韶邦)と名を改めた。
父・齊護はこの時期54歳、万延元年(1860)四月十七日に死去することになる。(57歳)実父は宇土藩主・細川立之、実母は賢夫人として有名な栄昌院(福・トミ)、土井大炊頭利厚女であり、正室は浅野安芸守女・顕光院(益)である。
澄之助を養子に望んだのは、立政(齊護)の同母弟・行芬(10代藩主・嘉永四年(1851)に隠居)の二男・立則(11代)らしい。
当時48歳である。正室とは離縁し実子がいなかったので、澄之助を養子に願ったのであろう。
本家がこれを断ると、立則は文久元年(1861)に弟・行眞(12代・天保十三年生まれ)を養子に迎え、翌二年には病気のため隠居している。
たった一行の記事から、いろいろ資料を突き合わせていくと、御家の事情が浮かび上がってきて非常に興味深い。