藩法集のご紹介も最後の項「御刑法方定式」に入った。10日程でご紹介する。
これは細川重賢公による宝暦の改革の目玉の一つである刑法の改革である。それは「御刑法草書」と名づけられたが、「草書」とあるのは未だ完璧には至っていないことを指しているという。「御刑法方定式」はその運用について解説したものである。
それまで追放刑として処断していたものを、笞刑とし一定期間牢舎に入れるとともに勤労をさせ工錢をあたえるという、改心再出発の機会を与えるという画期的なものであった。
重賢公の許にあって宝暦の改革の立役者となった大奉行・堀平太左衛門には、この笞刑(笞打刑)を考案するにあたっての逸話が残されている。
或時政府より笞刑に用る杖を駕の内に入れて歸られ、玄關より自身提げて奥に入られ、
老女へ今日は辰次(家来牛島孫之允の子)に馳走するぞ、肴を出し酒を呑ませよとて、
十分酒肴をたべさせ、よき機嫌に成りたる時、右の杖にて我尻べたを一パイに打てと
申付らる、恐れ憚ながらも酒のいきにて、一パイに一打々ければ、今一打々てと申さ
る故又打ける、其時辰次十四歳にて、子供心に思ひし事、今に忘れずと七十餘歳にて
の咄を、勝野某聞ての話なり、(以下略) 遺秉集より
この「御刑法草書」は優れた画期的刑法と認識を得て、下って明治新政となって「刑法典」の参考になった。
平左衛門の「尻べた」は腫れあがったことであろうが、その痛みを実感してこの刑法が誕生したのである。