現在「阿部茶事談」をご紹介している。ちょうど忠利公の葬礼のことなどを「釈文」でご紹介したところだが、まだ1/4の進捗状況である。
さていろいろ伝えられている忠利公の最後に関する逸話は何処から出たのであろうか。荼毘に付された「春日寺(岫雲院)」の寺記などが出どころではないかと考えたりしている。
この「春日寺記」をよむと、忠利公の菩提寺として春日寺が候補の一つであったことが伺える。
真源院様(光尚)御意に、春日寺所柄悪敷く、御参詣も御道筋宜しからず候間、寺地を外に見立て候て、御菩提所御建立成さるべき旨、
奥田権左衛門へ仰せつけられ、方々寺地御吟味にて、鳶尾・嶋崎・石神辺など然るべきやと権左衛門申上げらえ候得ば、是も所柄御意に
叶はせられず、只今の妙解院の所に相究まり候。夫より当院に御影堂御建立遊ばされ、山林共本高五拾石御茶湯料を御寄附遊ばされ、唯
今に至り御霊供日日懈怠なく相備え、御廻向相勤申候事、
細川家の菩提寺としては、藤孝・麝香、忠興・玉の四つ御廟がある泰勝寺がある。何故ここに納めなかったのだろうという疑問も残る。
熊本城からこの泰勝寺は「表鬼門」にあたり、「裏鬼門」の方向に建立しようと考えられたのであろう。
江戸に於ける将軍家の「増上寺」と「寛永寺」がそんな関係にある。
そこで三ヶ所ばかりの候補地が挙げられたが「所柄」が悪いという理由で却下されているが、光尚の気持ちは「裏鬼門」の線上にという気持ちがあったのだろう。
高麗門から御成り道を進めばわずかの距離であり、絶好の地が選ばれた。
鳶尾という地名が記されているが、私はこの地名を知らない。熊本地名辞典をみても存在しない。富尾の間違いではないかと思ったりしているが如何・・・