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Channel: 津々堂のたわごと日録
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■「田川キリシタン少史」-(3・了)

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       『田川キリシタン小史』(3・了)       小倉藩葡萄酒研究会 小川研次

エピローグ
豊前小倉藩のキリシタンは「金山」という極めて閉鎖的な地帯に流れ込んだ。
それは信仰を固守するための希望にも繋がったが、山法により労働力の流動化をもたらした。
神のため、生きるために北へ向かっていった者もいた。しかし、それは単なる労働力の確保だけではない。藩主のキリシタンへの「思い」があった。
当時、キリストの説「愛」という言葉はなく、「御大切」と言われていた。小倉藩のキリシタンを語るには細川ガラシャ抜きには語ることができない。
忠興と忠利の「御大切」の原点はガラシャにある。
細川家豊前小倉藩時代の三十二年間に及ぶガラシャの御霊救済への祈りは、藩内キリシタンの心にも通じている。
特に忠利の一貫したキリシタン擁護の姿勢が如実に表している。
イエズス会『一六一一年度日本年報』に伊東マンショやカミロ・コンスタンツォが去った後、中津にいた忠利は「私の魂は聖なる信仰の同じ流れの中にあり、それが報いられないのは遺憾である。(司祭に)自らの判断で、来たいときにはいつでもキリシタンを訪ねられるよう許可し、将来のためにも大きな希望を与える」と宣言したとある。
ここに私は「キリシタン忠利」を思うのである。(忠利は幼少時に母ガラシャにより洗礼を受けた可能性がある)
「金山」キリシタンに寄り添ったのは、小笠原玄也家族である。
そして、彼らが最も試練を与えられた地が田川郡だったのである。
細川家肥後転封後に小倉藩からの逃亡者が四七五人もいたというが(『江戸城の宮廷政治』山本博文)、多くのキリシタンがいたのではなかろうか。
そして、何よりも訴えたいことは、細川家と彦山の関係である。驚く事に金山と山伏の彦山入峰経路が一致するのである。
秋峰は彦山から添田、大行事、今任、伊田と北上し弁城宿→上野宿→上境→福地山に至る。
帰路は豊前企救郡と田川郡の郡境の尾根から木部宿(金辺)→古宮→(鈴
麦)→龍鼻宿(竜ヶ鼻)→香春祇園堂→(中津原)→赤村となる。(『秋月街道』)
金山開発のきっかけは鉱石である。山伏は間違いなく、その情報を細川家に伝えている。
それだけではなく、キリシタン鉱夫の保護も行なっていて、潜伏した神父の移動や穿鑿の情報など協力していた元山伏らが、小笠原玄也をリーダーとする信徒組織にいたと考えられる。
元和三年(一六一七)に二人のキリシタンが筑後で殉教があり、元高良山の山伏であったという。(『日本切支丹宗門史』)
不思議なことに、忠利小倉藩主時代にキリシタン容疑で処刑された者が、一つの例外以外にいないのである。
寛永元年(一六二四)九月十七日の『日帳』に「成田喜右衛門」というキリシタンが家臣が「転ぶ候様にと色々意見申す」が、棄教しなかったので成敗されることになったとある。
これが『日本切支丹宗門史』によると「ある大名に仕えていたトマス・キエモン(喜右衛門)は、小倉に流謫されていた。
仏教徒の妻の両親から、キリシタンと告発され、役人たちからいろいろ誘われたが、無駄であった。
当時、不在の藩主にこのことを報告した。
四ヶ月後に、トマスを死刑にせよとの返事が来た。(中略)十二月一日に斬首された」とあり、より詳細に知ることができる。
他国の人物が小倉に流謫されていたということは、幕府の命令である。処刑も忠利の命令ではない。
寛永九年(一六三二)十二月六日、忠利は転封先の肥後国を目指して小倉を立った。
キリシタン家臣と小笠原玄也家族を伴っていたことは言うまでもない。
『日本切支丹宗門史』によると「筑後を経て」とあり、秋月街道を通っている。
そこで「ビエイラ神父は、この行列に出会った」とあり、大阪へ向かうイエズス会代理管区長のセバスチャン・ビエイラと忠利は遭遇していた。
さらに、ビエイラが目の当たりにしたのは「夥しいキリシタン達が、信仰を否定する危険に身を晒さぬために、避難所もなく、幾つかみかの米の他に食物がなくて、山の中で暮らしていた」ことであり、そこは田川郡の金山であったのである。
『香春町史』によると、香春町長福寺(後の光願寺)の絵踏はずっと時代が下ってからで貞享三年(1686)からである。
文政十二年(1829)の金田手永大庄屋の記録によると絵踏をした者は七九三人、踏まなかった者は二〇七八人とあり、圧倒的に踏まなかった者の方が多い。
これはキリシタンがいたということよりも、この時代は宗門改が民衆統制の年中行事となり、絵踏自体が形骸化していたのである。(『近世日本豊後のキリシタン禁制と民衆統制』佐藤晃洋著)
門前には出店などがあり、お祭り騒ぎだったそうである。
しかし、嘉永三年(1850)三月に金田村から九人、大熊村から三人のキリシタンが摘発されている(『金田町史』)ことから、潜伏キリシタンがいたことは間違いない。
先述したが、元和九年(1623)には、田川郡では既に石炭発掘を行っていた。
百年後の享保五年(1720)から、豊前赤池から焼石(石炭)を筑前の漁船の照明用や塩浜の製塩用に送ることになった。
やがて天明年間(1781~1788)には、石炭業が一大産業となり、他国への輸出も始まった。(『金田町史』)
大熊村や金田村には、多くのキリシタン鉱夫が働いていたのだ。
大正三年(1914)十二月十五日午前九時四十分、方城炭鉱(現・日立マクセル)の大爆発が起きた。
死者六八七名の犠牲者を出した日本最大の事故で、世界で三番目という炭鉱災害である。(『方城町史』) 世に言う「方城大非常」である。
悲劇の地は奇しくも二九〇年前に長州から来た柿波治郎兵衛が金山事業で成功し、「盛大にして四集の民忽ち市街を成す、之を金山町と云う」(『方城町史』)この町であった。(日立マクセルと福智町弁城宝珠は隣接)
多くの家族を失った。孤児だけで七八四名という。
身寄りのない少女かずえが、父親の死体確認に行くことになる。
「かずえはまだ数えで十一歳の少女であった。二十分後、賢吉はかずえを掻き抱くようにして棺の前まで連れてきた。
係の者が蓋を開いた時、賢吉の身体から一瞬血の気が引いた。」
「ちがう。父ちゃんばこげん格好ばしとらんやった。ちがう!父ちゃんやなか!」
「わかった。わかった。兄ちゃんも男のくせして、こげん泣いちょるばいな。
父ちゃんやな…。かずちゃんが、父ちゃんやち言うてくれんと、父ちゃんばいつんたっても極楽さい往かれんごつなるな、父ちゃんやな、違いのなかね…」
かずえは賢吉の胸の中で、やっとうなずいた。(『方城大非常』織井青吾)
事故当日、入坑寸前に助かった出口松浩氏は、約二七〇メートルの立坑の底から吹き上げてきた小さな像を目にする。(『広報ふくち』福智町)
それは「マリア像」だった。
                         (了)

 

                    田川市石炭歴史博物館所蔵


参考文献・引用資料
レオン・パジェス『日本切支丹宗門史』岩波書店、一九三八年
姉崎正治『切支丹迫害史中の人物事跡』同文館、一九三〇年
『大分県史近世篇Ⅱ』大分県総務部総務課編、一九八八年
菅野義之助『奥羽切支丹史』佼成出版社、一九七四年
武田久義『友子の一考察(二)』一九九三年
ゲルハルド・フーベル『蝦夷切支丹史』北海道編集センター、一九七三年
村串仁三郎『徳川時代の金堀友子に関する考察』一九八二年
内田圓治『小倉藩政時状記』福岡県史資料五輯、福岡県編、一九三二年
青地礼幹『可観小説』「鳩巣小説」より金沢文化協会、一九三六年
『福岡県史』近世史料編、細川小倉藩(一)(二)(三)、西日本文化協会、一九九〇年
後藤典子『小倉藩細川家の葡萄酒造りとその背景』熊本の大学永青文庫研究センター、二〇一八年
『郷土史誌かわら』第二集、一九七四年
『郷土史誌かわら』第六集、一九七六年
『秋月街道』福智町文化財調査報告書 第一九五集、福岡県教育委員会、二〇〇四年
古賀康士『近世初期細川小倉藩の鋳銭事業』二〇一六年
佐藤孝『英彦山の史跡と伝説』葦書房、一九八七年
『新・肥後細川藩侍帳』「肥後細川藩拾遺」
『綿考輯録』第二巻、第三巻、忠興公(上) (下)、汲古書院、一九八八年
上妻博之編著 花岡興輝校訂『肥後切支丹史』エルピス、一九八九年
塩見弘子『悠遠の人高山右近』ドン・ボスコ社 二〇一七年
山本博文『江戸時代の宮廷政治』講談社、二〇〇四年
松田毅一訳『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第一期全五巻、第二期第一巻、全三巻、同朋社
村上直二郎訳『イエズス会日本年報』上、雄松堂、一九七九年
山崎一郎『十八世紀萩藩における文書管理・記録作成と藩士柿並市右衛門』
岡部忠夫『萩藩諸家系譜』琵琶書房、一九八三年
『萩藩閥閲録』山口県文書館、一九六七年
高鶴元『上野・高取・八代・小代』日本陶磁大系第十五巻、平凡社、一九九〇年
李義則『陶磁器の道』新幹社、二〇一〇年
『熊本藩年表稿』細川藩政史研究会、一九七四年
松田毅一『近世初期日本関係南蛮史料の研究』風間書房、一九六七年
佐藤晃洋『近世日本豊後のキリシタン禁制と民衆統制』
梶谷敏明『彦山・岩石城と佐々木小次郎(下)』ブイツーソリューション、二〇〇九年

『萩市感光協会公式サイト』
『阿武町役場ホームページ』
『小倉藩人畜改帳』大日本近世史料、東京大学編纂所、一九五七年
『方城町史』方城町編纂委員会、一九六九年
『香春町史』上下、香春町史編纂委員会、二〇〇一年
『金田町史』金田町史編纂委員会、一九六八年
伊東尾四郎『企救郡誌』ナガリ書店、一九八三年
『豊前村誌』
『福岡県百科事典』下巻、西日本新聞社、一九八二年
『角川日本地名大辞典』「福岡県」、角川日本地名大辞典編纂委員会、一九八三年
織井青吾『方城大非常』朝日新聞社、一九七九年
『広報ふくち』福智町、二〇〇七年十二月


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