吉川弘文館発行の「永青文庫の古文書」から、「細川ガラシャの生涯」にある略系図を眺めていたら、二つのことに疑問を持った。
藤孝女・加賀(木下延俊室)と忠興女・多羅(稲葉一通室)の生母についてである。
加賀は藤孝室麝香との子としているが、筑前黒田藩の大老三奈木黒田家(加藤家)の系図では「加藤重徳の妹=伊丹康勝女」であると記されている。
加藤重徳は有岡城の牢に入れられていた黒田如水を助け、御礼の意を以てその男子を養子となし、黒田の姓を与え三奈木黒田家初代(一成・16、200余石)としたものである。
一方忠興細川家の古い記録「永源師壇紀年録」には、忠興女・多羅の生母は郡宗保女としている。
この系図作成にあたって引用された書籍類に間違いが見られるから、このような結果を招くことになる。
引用書籍のうち、ガラシャ研究の第一人者を自負される田辺泰子氏がその著「細川ガラシャ」の「略年表」で間違われ、安廷苑氏はその著「細川ガラシャ」の「年譜」で同様の間違いを犯され、重ねて万姫の生母をもガラシャとされている。
若しやと思い、熊本県立美術館で開催された「永青文庫展示室解説10周年記念」展「細川ガラシャ」の図録も、まったく同様のものであった。膨大な引用文献が掲載されているが、「永源師壇紀年録」などに目が向けられていないことは残念極まりない。
在野の爺様はごまめの歯ぎしりをしている。