■ヤフオク二点
其1 妙解院 御書②B 細川忠利 細川家 みょうげいん 戒名 江戸時代 古文書 肥後国 熊本県 これは数日前に出品されていた細川家家臣・鯛瀬氏の宛行状に関連する一連の鯛瀬氏の資料である。忠利に対する「見廻(音信)」に対する内記を称していた時代の書状であり、他の三点と共に一包となって出品されている。鯛瀬氏が所持されてしかるべきものだが・・・・...
View Article■細川小倉藩(328)寛永五年・日帳(九月四日)
日帳(寛永五年九月)四日 | | 四日 |金山ノ白目ノ様ナ |一、御金山ニ在之しろめの様成もの、ためいけニ而、御やき物被仰付候御薬之御用ニ、急度くだかせルモノヲ釉薬ニ砕 | 可申旨ニ付、しろかねや彦■丞ニくたかせ候へと申候而、橋本惣右衛門ニ手桶一ニ入、渡申候、カシム |...
View Article■「源姓細川家」家譜
源姓細川家家譜?」肥後藩 熊本藩 系図 細川藤孝(幽斎)細川忠興(三斎)細川忠利(肥後熊本藩初代藩主)江戸 写本 和本 資料 割と状態良く保存されている。齊茲公に至るまでの細川家家譜である。
View Article■夏ニ題
これは俳句といえるかどうか、古い句に「たのもうの声に物着る暑さかな」というものがある。誰の句か、いつごろのものか、私はどこで何を読んで覚えていたのかもよくわからない。ぐぐってみても出てこない。裸ででも過ごしていたところに、外から来客の声がして、慌てて装いを正して飛び出したという風情である。...
View Article■細川小倉藩(329)寛永五年・日帳(九月五~六日)
日帳(寛永五年九月)五~六日 | | 五日 |長崎ヨリ花草幷薬 |一、長崎へ、河村喜左衛門舟ニ而、歩之御小性伊藤太左衛門乗遣候処ニ、今朝罷帰候、花草幷薬種積種積来ル | 来候事、忠利松平忠重幷木...
View Article■細川小倉藩(330 )寛永五年・日帳(九月七日)
日帳(寛永五年九月)七日 | | 七日 | 小頭 急長崎へ遣ス飛脚ニ |一、長崎へ被遣御飛脚、御のほり衆波賀小右衛門・御長柄衆神戸喜平次与二右衛門与孫介、両人御用状ノ覚 | (飯銅)...
View Article■細川小倉藩(331 )寛永五年・日帳(九月八日)
日帳(寛永五年九月)八日 | | 八日 |唐人二官ニ付置シ |一、唐人二官ニ被為付置候御小人ノ小頭與助与の助左衛門と申もの、昨夜とりにけ仕候由、但、おや小人取逃ゲ親兄弟 | ・あにきともにはしり申由申事、供ニ走ル |棕櫚ノ移植困難...
View Article■遠見ヶ鼻
高浜虚子は昭和27年11月阿蘇を訪れている。そして半年ほど前に亡くなった熊本の俳人で弟子の宮部寸七翁の墓前に詣で、次の句を呈している。 君がため遠見ヶ鼻の竜胆を ーあなたのために、あなたが眠る阿蘇平野を眼下に見る遠見が鼻から竜胆の花を手折ってきましたよー...
View Article■細川小倉藩(332 )寛永五年・日帳(九月九~十日)
日帳(寛永五年九月)九~十日 | 重陽 | 九日 | (正照)大友吉統の三男 |一、林久太夫相煩申、今日之御礼ニ不罷出由、松野右京殿被仰候事、...
View Article■ヤフオク「福田家史料」三点
福田家については、私の記憶では過去にもヤフオクの宛行状が出品されたように思うが、その折のものの再出品だろうか。三点がバラバラで出品されている。 福田次左衛門宛目録 肥後国益城郡・飽田郡之内 弐百石 ①- 肥後藩 四代藩主・細川宣紀知行宛行状 益城飽田二郡之内 正徳6年 ②- 熊本藩 九代藩主細川斉樹...
View Article■細川小倉藩(333 )寛永五年・日帳(九月十一~十二日)
日帳(寛永五年九月)十一~十二日 | | 十一日 |侍共強飯ヲ引ク役 |一、河本瀬兵衛・山田少兵衛、今日の御能ニ、こわいゝをひき可被申通、申渡候処ニ、まくのかけニヲ避ケントス | かゝミ居申候を、又見付候て、申付遣候事、...
View Article■ガラシャ夫人?
明治期の女流画家・柴崎美方のデッサン帳が数冊オークションに出品されている。それぞれを眺めていたら、下のようなデッサンが有った。一部にガラシャが生涯の時、二人の子を殺したという話が残るが、これを彷彿とさせるようである。この画家にガラシャ夫人に関する作品が有るのかどうか知らないが・・・・
View Article■細川小倉藩(334 )寛永五年・日帳(九月十三~十四日)
日帳(寛永五年九月)十三~十四日 | | 十三日 | |一、今度、江戸廻之御船頭南次兵衛・古野二郎介両人也、木屋善賀 |一、木屋善賀申候ハ、来ル廿八日に可被成御越旨被 仰下ニ付、御礼ニ登城仕由ニ而、参候事、梨ノ盗難...
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