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Channel: 津々堂のたわごと日録
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■原文に触れる「志方半兵衛言上之覚」(42)


■沢潟

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 一昨日近所の園芸店でメダカのために「アマゾンフロックピット」とか、「ウォーターコイン」という水草ミニポットを購入した。
一気にビオトープがにぎやかになった。

ビオトープ用には「うりかわ」が沢山出ていたが小さな株が1,000円弱で店頭に並んでる。
我家にはいま「うりかわ」の本家筋の「沢潟(面高)」が写真のような具合で成長している。
10年ほど前家紋の「沢潟」のデザインのすばらしさをブログに書き、栽培したいが球根が園芸店では手に入らないことをぼやいたら、東京のT Y様がわざわざ送ってくださった。(当時Amazonで簡単に購入できることに気づかなかった・・・)
以来この時期になると、このように一斉に芽を出す。
不思議な形の葉っぱだし「沢潟」という字面も不思議ではある。どう考えても日本語的には「沢=おも、潟=だか」とは読まない。
しかしなんとなくそんな場所に植生している事は伺える。これは中国由来のネーミングのようだ。
日本の「面高」も判らぬではないが、何やら面白くなく、「おもだか=沢潟」が格調高くていいようだ。
そのうちに「うりかわ」同様、可愛い花を付けてくれることだろうと思っているが、少々栄養不足が心配。
めざし」を1本埋めておくと良いとの事だったが、最近「めざし」は食べないからな~

 

■細川小倉藩(276)寛永五年・日帳(四月四日~五日)

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                      (寛永五年正四月)四日~五日 

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         |    四日
         |
         |     (規矩郡)
忠利鹿狩     |一、今日門司山へ御鹿狩ニ被成御座候、
         |                                     (浅山)
池田忠雄ノ飛脚ニ |一、松平宮内様ゟ御文箱壱つ、飛脚持参候事、此飛脚ニ銀子一枚被遣候、御使ハ修り、
銀子ヲ給ス    |
鹿狩ノ獲物四   |一、今日ノ御狩ニ、鹿四つとれ申候、内男鹿二、女鹿二つ也、四つ共ニ皮をはかせ、弐つ分は明寰ニ
肉ハ明寰三官ニ賜 |                         (八木) 医師并伽之者 百石(於豊前小倉御侍帳)
与ス       |  可遣、弐つ分ハ三官に可遣、はらごミハ子袋共ニ慶閑ニ可渡、ふくろづのハ、きりて上ヶ候へ
腹籠ハ医師ニ渡ス |  と、被仰出候事、
         |           (尾カ)
鹿頭袋角睾丸等ヲ |一、慶閑申候ハ、鹿頭・ヲ・ふくろつの・腹籠・きん、此分を取、慶閑ニ請取置候へとの 御意
慶閑ニ請取ラシム |  旨、慶閑被申候事、
         |                  (へ脱)
兎ハ隼ノ餌    |一、うさぎハ隼ノ餌に可成候間、山本二介可渡由、慶閑を以被 仰出候事、
         |                                   (白井)(鏡)
六十丁立ノ伝馬舟 |一、六十丁立之てん舟ま舟・九端帆・五疋立之御馬舟、新敷作り申度由ニ而、兵介・善右衛門書付を
九端帆ノ船五頭立 |         〃
ノ馬船新造ノ忠利 |  上申候処、作り可申由、 御自筆之御裏書出申候を、此方に取置、兵介に 御意通申渡候事、
自筆ノ裏書    |

         |
         |    五日
         |
         |一、野原善太郎、今朝下着被申候事、御船頭ハ石井又左衛門也、
小笠原長元請戻セ |一、小笠原備前殿、去年被仰請候 御袖判御請戻候て、今日之便宜ニ、式ア少殿へ被成御下候由に
シ袖判ヲ届ク   |  て、式ア殿被成御持参候、請取置申候事、
玖珠郡年貢ノ大豆 |一、玖珠郡御年貢大豆・小豆、山移ニ津出仕置候を、今月十五日ゟ内ニ、上毛・下毛・宇佐郡ゟ御
小豆ノ山移ニ中津 |  郡夫にて、中津へ津出可被申付通、ふれ状を調、玖珠郡ゟ参候百性ニ遣候事、
へ郡夫ニテ津出シ |
         |一、右備前殿被仰請候 御袖判、飯田才兵へ・奥村少兵衛を以、相渡申候事、
小遣方ノ銀買懸ノ |一、小遣方ノ御米銀、かいかゝりの分、深野二郎右衛門・栗野伝介・金子喜左衛門惣談にて、御米銀
分ノ払ノ惣談   |       〃
         |  にて急度被相払筈ニ、相究候事、
小人長柄持筒草履 |一、今度御小人・御長柄・御筒持、御さうり取衆ニ、もめんニて道服単物そめ被遣、御奉行富田十太
取ニ木綿道服単物 |  夫与大久保太左衛門・同与村上伝左衛門申付候事、
ヲ染メ着用セシム |
築城郡上毛奉行花 |一、沢少兵衛所ゟ、花色々持せ被上候、御用ニ御座候は、ほらせ上可申由、被申上候、則吉田古平を
ヲ種々進上シ移植 |  以上申候処ニ、よく持せ上候、併、此方ニたくさんニ御うへさせ被成候間、不被為入旨被 仰出
ノ可否ヲ伺ウ   |  候事、
ソノ要ナシ    |
         |                    (野原)
家具入ノ長持下ル |一、御家具十五人前入申たる長持三つ、今日善太郎持下候、則熊谷九郎兵衛を以、懸 御目申候処
木綿袋ニ入レシム |  ニ、もめんにて、それ/\ニ袋を申付候へと、被 仰出候事、
植毛ノ虎皮ノ鞍覆 |一、うへ毛ノとらのかわの御鞍おゝいも持下被申候事、
         |                                      (政直)長崎代官・貿易商
長崎へ蜜蜂ヲ求メ |一、長崎へ、ミつはち取ニ被遣候歩之御小性、もとり被申候、かちにてハ成申間敷通、末次平蔵所ゟ
         |                       (成政)
小早ヲ遣ス    |  申越ニ付、又小早を遣可申旨、 御意之通、坂崎清左衛門被申候事、
唐人ノ少峯蘭進上 |一、少峯所ゟ蘭一鉢上申候、道倫取次、上被申候事
         |

■志方半兵衛言上之覚・釈文‐ 36(原文42分)

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42           一大坂ゟ左門殿忰御下候を伊豆殿被仰候ハ百生
           と申候ても身を捨たる物ニて城をもこしらへ
           居申候を不見して是ゟ之御差圖御無用
           御着之上見及御談合ニて可然様ニ可被仰付
           と被仰候へ共左門殿忰を御下候由申候事
          一左門殿爰元ニても一くわはして見せたてと
           被仰せ候へ共伊豆殿被仰候ハ左様ニしてミはた
           多被打候ヘハ異国まて之御外聞如何ニ御座候
           と被仰候由申候 何事ニ而も伊豆殿被仰候に
           遊申由申候事
          一薩广之御人数天草へ壱万五千に而渡り申
           筈之由申候 嶋原へも御人数渡候へとの儀ニ
           御座候は御息式ア大夫殿壱万五千被召連御
           渡海之はすと申候 嶋津下野も上使衆へ之
           御使ニ一両日中ニ嶋原へ着被申由三原左衛門佐
           被申候 左衛門佐 上使衆之前ニて申候ハ薩广ゟ
           打立申候ヘハやらふやらふニて御座候故下知法度を聞
           不申所めいわくの由申ニ付 上使衆も嶋原へ

■細川小倉藩(277)寛永五年・日帳(四月六日~八日)

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                      (寛永五年正四月)六日~八日 

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         |    六日         
         |
         |               (古保、松井興長室、三斎女)    (南条元信室、細川興秋女)
忠利東茶屋ニテ古 |一、今日は、ひかしの御茶屋にて、御こほ様、御かね様、おなへ様被成御振舞候事
保かね鍋三人ニ振 |                     (筑紫重門室、細川幸隆女)
舞ウ       |
         |
佐藤久右衛門発狂 |一、宇佐郡之御郡奉行衆ゟ被申越候ハ、佐藤久右衛門尉狂気被仕、昨日女房衆と下女壱人さしころし
刃傷放火シ切腹ス |  被申候、又主小者壱人・魚住木工百性之小者壱人つき被申、手負居申由候、其身ハ家ニ火をか
         |  け、腹をきり被相果候、子供両人ハおもてにふせり居、火事出来と心得、はしり出候ニ付、何事
         |  も無之由、被申越候事、
         |         (金太夫)(吉右衛門)
金山ノ様子ヲ奉行 |一、小山之様子尋ニ、春木・沢治所へ之状、上林甚介与之新介ニ持せ遣候事、
ニ尋ヌ      |
         |一、上方ゟ御小早下り申候、御船頭は福嶋八兵衛也、先度大坂御普請ニ、被成御上せ候御年寄衆へ
忠利東花畠ニアリ |  御書被成候、其御請持下申由、被申候事、右之御請とも、ひかしの御花畠ニ被成御座候ニ、すく
         |  ニ持参仕由申候事、
長崎へ蜜蜂請取ノ |一、岡田■茂兵衛、長崎へ明日ミつばち取ニ被遣候、罷戻候時、海上二日参候へとの儀ニ御座候由、
帰路ヲ急ガシム  |  被申候、成ほと急キ可被申由、申候事、
         |

         |
         |    七日         
         |
         |             (塩田)
佐野某捕縛町籠ニ |一、佐野九兵衛と申もの、浜助ニとらへさせ、町籠ニ入置候事、
入牢       |
忠利佩刀ノ鑑定ニ |一、御腰物御わきさし・御太刀ノ身調ニ、竹や喜兵衛被遣候、御横目ニ宮部権三郎可被遣候との 御
竹屋ヲ遣ス    |  意之由、喜兵衛申候、則権三郎をよひ、申渡候事
         |      (恵重)(豊後速見郡)
木下延俊ヘノ使者 |一、先度、志水新丞日出へ御使者ニ被遣候時、日出にて小袖壱つ拝領仕由、被申候事、
大工脇差ヲ進上ス |一、大工之新兵衛上申候わきさし、今日熊谷九郎兵衛を以、 御前へ上申候、わきさし上申子細、則
ソノ理由ヲ尋ヌ  |  九郎兵衛を新兵衛やとへ被遣、被成 御尋候事、
         |

         |
         |    八日         
         |
宇佐善光寺ノ茶屋 |一、上野文左衛門、うさ善光寺の御茶屋繕仕廻、罷帰由にて、登城仕候事、
修繕完了     |
佐野某捕縛ノ様子 |一、佐野九兵衛をとらへ申候時ハ、先兵助取付申候処ヲ、田辺作介左ノ手ニ取付由、其後松岡久左衛
         |  門与之池部七兵衛と正斎と取付申候、其後上林甚介与之田崎與兵衛取付申候由、田辺作介と池部
         |  七兵衛、此両人申候事、
         |                      (北村)
入牢ノ百姓病ニ薬 |一、下毛郡伊原村之弥市煩申ニ付而、御くすしの作雲明日脉ニ被参候、左候而、今晩薬を遣被申候
師派遣      |  事、
佐野某成敗    |一、佐野九兵衛御成敗被 仰付候事、
         |                               壱歩二つ
買物奉行町ニテ壱 |一、壱歩判弐つ、坂崎一角所ゟ御かり被成候を、則買物奉行町ニ而、〇拾四匁宛ニかい候而、上ヶ候
歩判買入ノ価   |  を、御銀奉行ニ、徳永市兵衛ニ相渡申候事、
銀奉行      |
         |  (大里、規矩郡)
忠利大里辺ニ鹿狩 |一、内裏ノわきの山ニ鹿弐つ見こめ有之付、被成 御座候事、
り        |
         | (烏丸光賢室、三斎女)供之者・御扈従与也「藤」三百石(於豊前小倉御侍帳)
烏丸万ヲ出迎   |一、御万様御迎、小崎四郎左衛門被遣候、下津井ニて、当五日ニ懸 御目、直ニ中津へ御使ニ被遣
         |  ニ付、中津へ参、中津ゟ罷帰候事、
鹿狩不猟莵ヲ獲ル |一、右分ニ御鹿狩ニ被成御座候へ共、鹿一つも居不申ニ付、被成御帰候、うさき大小三つ、被成御取
         |  候事、
         |   (宇治屋)                                         小倉北区馬借一丁目4番、
宇治屋茶助歿ス  |一、うちや茶介今夜相果申由、上林甚介申来候事、但、茶介つね/\泰岩寺たんなの由ニ而参候つる
泰厳寺      |  間、右之寺へ、桶ニ入、可遣由申候、又茶介銀子少在之通、やしないむすこ申候間、是も相当可
         |  遣由申候、其分可然由申候事、
         |

                

■昭和28年水害の写真

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 史談会の若い友人中村君は師匠ともいうべきDr高田先生の遺品の整理に力を尽くしている。
数万枚ともいわれる写真やネガもその中の一部だが、今となっては貴重な史料だ。
その中から昭和28年当時の水害の写真を送ってくれた。
Drのクリニック兼住居は、通称「歩小路」、現在の南坪井4丁目にあったが、昭和28年当時どこにお住まいであったかは承知していない。
この当時は高校生ではなかったかと思われる。上の写真には橋の上を路面電車が走っているのが見える。大甲橋だ。
だとすると、手前の橋は安政橋だろう。
上流側から撮影すると、大甲橋を奥にしてこのように至近に橋が重なって写ることはあり得ないから、下流側から撮影されている。
また上の写真の下に見える建物は、下の写真の上の方に写し込まれていて写真が縦方向に繋がっていることが判る。
そして安政橋は流失しているから、大水害直前の撮影であろう。
白川の河川敷には当時この様なバラックが多く建てられていたが、これらも全て押し流された事は間違いない。
終戦から8年という時期、それぞれが必死に生きていたころ、自然は無情にも大きな試練を与えた。
私と同じくらいの子供たちの姿が見える。自分の姿を見る思いだ。無事で有ったろうか。
カンナの花が咲いている・・・・・見ていて辛くなる風景だ。

                

                

■原文に触れる「志方半兵衛言上之覚」(43)

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■女優・鶴田真由のご先祖様

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 NHK「ファミリ― ヒストリー」の前宣伝で、女優・鶴田真由のご先祖様が「新選組」の隊員だったとのことで、昨日の本放送を拝見した。
父方は臼杵藩で遠見番を勤める侍だったらしい。藩の機密事項を知り殺されたというが詳細は不明だそうな。
二人の男子は出奔、別府へ出てのちには網元となり成功し、代が変わると旅館業で成功し地元の有力者となったらしい。
母方のご先祖様に桑名藩の公用人を勤めた森弥一右衛門(陳明=つらあき)が後に函館新選組に加わつたという。
公用人時代の京都での活躍を示す資料が一瞬画面に見えて、思わず「あっ」と声をあげてしまった。
高祖父・上田久兵衛が京都留守居時代、各藩の留守居や公用人が一堂に会して宴を張っている図である。

    

 一瞬のことで定かではないが、左の方に二人立っているどちらかが弥一右衛門である。
久兵衛はというと右のほうに裸で立っている肥満の男がそうである。これには驚いてしまった。
久兵衛は公武合体派の会津・桑名藩との接触は日常茶飯のことであったらしく、彼の伝記ともいえる宮地正人編の「幕末京都の政局と朝廷」をみると、弥一右衛門の名前が日記の記載や書簡のやり取りなど、人名索引に56回も登場している。
弥一右衛門は捕えられ投獄されると、藩主に罪が及ばぬよう一身に罪を受け処刑された。
嫡男は森姓を名乗るのを憚り「若槻」を名乗ったという。その子は三木太郎と名付けられているが、森の姓を想い「三木(森)太郎」としたのだという。
この人が吉村家の養子となりその孫が真由さんの母親である。父方・母方とも波乱万丈の幕末・明治期を過ごされている。
しかしそんな境遇に立ち向かい夫々が凛とした生き方をされ、真由さんに結実しているように思える。

 上記の絵のどちらの人物が弥一右衛門であったのかを確かめるため、再放送を見てみようと思っている。
幕末・明治の回天期、心ならずもともに罪を得て死んだ弥一右衛門や上田久兵衛の霊安かれと願うばかりである。

               

           再放送 7月2日木曜   午後11時45分~ 午前0時57分          

■細川小倉藩(278)寛永五年・日帳(四月九日~十日)

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                      (寛永五年正四月)九日~十日 

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         |    九日         
         |                           (菊野)
         |一、阿部主殿ものニ、御飛脚一人付、石見へ可遣由、一昨日伊織助方ゟ被申越ニ付、御船ニて被遣候
         |  哉、又便船ニ而被遣候哉、如何可申付哉と、塩津三人を以、伊織方へ相尋候ヘハ、主殿もの次第
         |  ニ可仕候、いかよう共被 仰付無之由、被申ニ付、御小人壱人、主殿もの引合申候事、
龍王ノ石川里兵衛 |一、宇佐郡龍王ニ居候石川里兵衛ニ、今日ゟ十人ふち被遣候、則 御印出申候を、里兵衛ニ頂戴さ
ニ十人扶持ヲ給ス |  せ、豊岡甚丞へ 御印渡申候事、
入牢ノ弥平へ投薬 |一、下毛郡ノ弥市薬を、北村作雲薬を取ニ遣、則御籠へ持せ遣候事、
大工新兵衛子初見 |一、大工新兵衛子千徳、今日 御目見え仕候事、
中津ニテ演能ニツ |一、今度中津ニ而御能御座候ニ付、御折廿被進之候、此御奉行ニ、吉谷平太夫・速水長三郎両人申
キ折ヲ進上ス   |  付、加々山主馬方へ引渡申候事、
三斎ト継飛脚ノ往 |一、三斎様ゟ次飛脚にて、御書被進之候、則 御返書出申、次飛脚にて、持せ遣申候事、
返        |

         |
         |    十日         
         |
         |    (長元)
小笠原長元忠利ノ |一、小笠原備前殿、去年被仰請候 御袖判請届戻上可申との、備前殿請丞ニ、我々裏判有之を、御袖
袖判ヲ請戻シ上ゲ |                    〃
御印ノ段     |  判請届戻上、則 御前ゟ被成御出シ候をうけ取、 御印之段ニ入置候也、 御袖判御やふり被成
忠利袖判ヲ破ル  |    〃
         |  候をも、同前ニ入置候也、
走リシ小者ノ取替 |一、岩男嘉入小者、去年江戸にて走申候、就夫、かの請人ニ御乗物かきノ内立申候、右小者取替米之
米ノ返弁済サズ  |  儀ニ付、去年江戸以来、嘉入ゟ御乗物かきの頭衆へ色々理申候へ共、于今埒明不申候間、竹原小
請人乗物舁へ弁済 |  太夫ニ如請状、急度可被申付通申渡候、御国之御法度之儀ニ候間、左様ニ無之候ヘハ、さたのか
ヲ命ズ 国ノ法度 |  きりにて候間、可申上通申渡候事、
         |一、門川阿心被罷下候事、
鍋島勝茂へ端午ノ |一、肥前へ端午之御帷持参仕、歩之御小性松岡九太夫也、
祝儀ノ帷子    |
在郷ヘノ賜暇願  |一、宇野五郎左衛門儀、十四五日ノ逗留ニ在郷へ参度由被申候、可被参由、申渡候事、
忠利ノ陣鎌ノ鞘小 |一、御陣かまの■さや壱つ、白井兵介所ゟ持せ差上、御小早之内を御掃除申付候処ニ、御小早之内ニ
早ニ遺留     |                                 さや
         |  御座候由にて、差上被申候、則皆川治ア丞を以差上申候、 殿様之御かまにて有之由、治ア被申
         |  候事、
         |

■肥後の手永と村(5)八代郡

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                                       熊本藩領・手永図

■八代郡

 1、野津手永(手永会所・野津村)
   ・上鏡村(西厳寺、久保河原、松本)・下有佐村(榎町、桑本、大門)・鏡村(樋口、福嶋)・鏡町 ・内田村(田中)
   ・内田村(田中)・鹿嶋村(南、土亀、今古閑)・東鹿嶋村(梶原、小路、小無田、三ツ枝)・新地村 ・川原村 ・宮原村
   ・野津村(法道寺、横小路、田中、新田、高野道、馬場、射場)・宮原村(井出口、水柿、薮田、豊内)・小路村(高下)
   ・中野村(原田)・上有佐村(大平、田中、水柿、本名)・下村(牛水、田中、中野)・西河田村(平嶋村、八反田、岩崎)
   ・上土村(古閑、淵前)・外無田村(中野、田中、中原、大手、江口)

 2、種山手永(手永会所・興善寺村)
   ・興善寺村 ・岡谷川村 ・岡中村 ・岡小路村 ・拵村 ・今村 ・北村 ・早尾村 ・河上村 ・平嶋村 ・南大野村
   ・新田村(陳開新地村)・吉本町 吉本村 ・西吉元村 ・大野村 ・上北大野村 ・立神村 ・北種山村 ・南種山村
   ・小浦村 ・川俣村 ・栗木村 ・柿迫村 ・下嶽村

 3、高田手永(手永会所・豊原村)
   ・豊原村 ・奈良木村 ・本野村 ・高下村 ・西高下村 ・大福寺村 ・植柳村 ・敷河内村 ・麦島村 ・横手村
   ・萩原村 ・松江村 ・田中村 ・古閑村 ・上野村 ・大村 ・海士江村 ・新牟田村 ・南吉王丸村 ・吉王丸村
   ・東河内村 ・北片野川村 ・上片野村 ・中片野村 ・下同村 ・長田村 ・井上村 ・下井上村 ・日置村 ・上日置村
   ・福正原村 ・宮地村 ・古麓村 ・猫谷村 ・下松求麻村 ・上松求麻村
  帯刀様御開村
   ・高小原村 ・松崎村 ・本町 ・下河原村 ・麦島村 ・徳淵村 ・塩屋村
     右本町ゟ塩屋迄五ヶ村八代町也

■「田川キリシタン少史」-(2)

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 細川家と彦山
                                     ちょうじょほうしんのう 
彦山霊仙寺(名称英彦山は一七二九年から)の座主は、初代長助法親王から歴代、親王の皇胤が務めてきたが、十四代舜有に嗣子がいなかったために途絶えていた。

慶長五年(1600)に豊前国に入った忠興は翌年、大納言日野輝資卿の三男を養子にし、前座主舜有の遺児昌千代姫と婚約を結ばせた。忠有座主である。(『英彦山の史跡と伝説』佐藤孝著)
忠興は奉幣殿を建立するなど多大なる寄進を納めた。
また、忠興の家臣に仁保太兵衛という変わった経歴の持ち主がいた。
幼少時、忠有座主の元で育てられたという。元和二年(1616)二十七歳の時に忠興に仕えることになるが、七年後には惣奉行と出世している。
細川家と彦山との重要なパイプ役を果たすことになる。
寛保三年(1715)に書かれた加賀藩士青地礼幹の『可観小説』に「細川三斎の家来加賀山隼人」(巻十一)があるが、彦山を舞台にした事件で、当時の状況を知る上で貴重な記録であるので、あらすじを紹介しよう。

  不可解な事件は小倉城下で起きた。ある日、弓削田新右衛門の下人が御蔵所中島村の在津庄作方に逃げ込んだ。
  新右衛門は再三、庄作宅に下人を返すように訪ねたが、一向に埒が明かない。
  ところが、庄作が下人を連れて彦山の祭りに行くところが目撃された。
  新右衛門は彦山の庄作の宿坊を訪ね、下人を返すように頼んだところ、庄作は了承した。
  しかし、何を思ったのか、庄作は下人の首を落とし、外に出て新右衛門も斬り殺した。
  庄作は宿坊に立て篭もったのだが、山伏らに囲まれた。しかし、中島村の百姓が百人以上集まり武器を手に彦山
  の庄作宿を目指し、立て篭もってしまった。
  これを聞いた忠興は怒り心頭に城中当番以外の家臣一人残らず彦山に走らせた。
  そこに忠興寵臣加賀山隼人が現れた。六千石の大身である。
  彦山に駆けつけた隼人は、事件解決を任されることになるが、宿坊の亭主を呼びつけ、三百人前の弁当を作ら
  せ、丸腰の侍十二人に庄作の元へ運ばせたのだ。
  「喰物不足にては働の力よわく、志もくじけ申す可し。士は相互の事に候。」(食べ物がなければ働けなくな
  り、志もくじける事になる。お互い様である)と隼人の言葉を伝えると、庄作は「扨も扨も加賀山殿御志指、百
  餘人の者ども二世迄も忘申間敷候。」(さてもさても、加賀山殿の志、百人以上の者どもも二代に渡り、忘れな
  いことでしょう)と答えた。
  夜中に攻め入る多数の意見があったが、隼人はあくまで兵糧攻めを取る。
  しかし、翌日夜明け、隼人は一人の小姓と共に、庄作に会いに行く。
  庄作は床に頭を付け、「御懇情難報存候」(貴方様の思いやりにどのように報いればいいのでしょう)と告げた。
  隼人は庄作を自分の宿に連れて行き、百餘人の百姓に武器を山伏に預けて帰るように言い渡した。
  さて、この事件の結末は庄作も百姓もお構いなしの処分だったのである。
  忠興は機嫌良く「彦山は肥後か豊前か」と隼人に聞くと「駿河の富士と同然に御座候」と申し上げたところ、忠
  興は「これもよく申上候」とさらに御機嫌だったという。

このまま、読むと訳の分からない話となるが、「下人」、「庄作」、「中島村の百姓」そして「加賀山隼人」に形容詞の「切支丹」をつければ、話が通じてくる。
小倉藩領のキリシタンの柱石だった隼人が全責任を負ったのだろう。
加賀藩に、この「事件簿」が残されていた理由は初代藩主(藩祖)前田利家の時代にある。
まず、「切支丹」は禁教とならなければ、事件も起こらない。慶長十七年(1612)三月二十一日に発令されている。
彦山「松会」は二月十四、十五日に催されるので、事件は翌年の慶長十八年(1613)となる。
慶長十八年(1613)十二月にも、発令されるが、翌年の正月に隼人は江戸城大普請の普請奉行に任じられているからだ。
さて、日本のキリシタン柱石である高山右近は天正十六年(1588)から、利家の客将として金沢にいた。
二回目の禁教礼が発令される慶長十九年(1614)正月まで身を寄せていた。何と二十六年間に及ぶ。
隼人はかつて右近の家臣であった。
十歳の時、高山友照・右近父子の摂津国高槻城にてルイス・フロイス(『日本史』著者)により洗礼を受けた。
キリシタン高山右近の背中を見て育ったのである。(『日本切支丹宗門史』)
天正十五年(1587)に筑前国箱崎にて豊臣秀吉が伴天連追放令を発令した。
その時、右近は自らの俸禄、領土(明石藩六万石)を返上し信仰を守ったのである。
この時、隼人は無一物の浪人になった主君に追随しようとしたが、叶わなかったのであろう。(『悠遠の人高山右近』塩見弘子)
その後、右近の親友である忠興に仕えることになる。
隼人は忠興から何度も棄教を勧められるが、信仰を棄てることはなかった。
それは、かつての主君右近の生き様を見ていたからだ。
隼人最後の日については後述する。
さて、この「彦山」事件は右近に伝わったのであるが、『可観小説』を編纂する時に禁教令下で「切支丹」を削除しなければならなかったのだろう。
ちなみに「在津庄作」『新・肥後細川藩侍帳』に「財津正作」とあり、大友家の家臣であった日田衆の一族である。
キリシタンの記録はないが、身内と思われる細川家臣「財津市兵衛」はキリシタンであった。おそらく「庄作」もキリシタンだっただろう。

 キリシタン家臣

『日帳』から、藩主忠利の三人の家臣に注目してみよう。
寛永元年(1628)八月一日に忠利は田川郡香春村に新銭鋳造場(現・須佐神社)を設置することを決定する。
忠利肝煎の鋳銭事業は藩の財政に大きく寄与することになる。
幕府に先立って鋳造された小倉藩の新銭は交阯(ベトナム)にも輸出され、流通されたほど上質であった。(『近世初期細川小倉藩の鋳銭事業』古賀康士著)
その新銭鋳申奉行に瀬崎猪右衛門が任命されるが、「罷りならず」と差替えを願い出ている。(八月十四日)
そして「新銭鋳申奉行に野田喜兵衛」となった。(八月十八日)
瀬崎猪右衛門と野田喜兵衛は共にキリシタンであった。喜兵衛は忠利逝去の折に殉死している。(「阿部茶事談」『綿考輯録』)
三人目は田川郡郡奉行(こおりぶぎょう)河喜多五郎右衛門正直である。同じくキリシタンである。
五郎右衛門の祖父は明智家家臣河北石見一成で、光秀の娘玉子の輿入れに従い細川家家臣となる。
また玉子が丹波の三戸野に蟄居した時から御供として仕えていた。(『綿考輯録』)
慶長五年(1600)七月十七日、石田三成軍勢に囲まれた大阪玉造の細川邸にて、玉子(ガラシャ)生害の折に殉死している。
その時、玉子を介錯した小笠原少斎秀清も殉死した。
三男小笠原玄也は敬虔なキリシタンであり、その妻マリアみやは元和五年(1619)に殉教した小倉キリシタンの柱石加賀山隼人の長女である。
最後まで信仰を棄てなかった玄也とみや家族は九人の子供らと寛永十二年(1635)十二月に熊本の花岡山で殉教することになる。
五郎右衛門の父は一成の次男であったが、明智家没落後に細川家に仕え、忠興の命により「河北」から「河喜多」と改め石見を名乗った。(『綿考輯録』)
元和元年(1615)、五郎右衛門は釘本半左衛門と共に田川郡の郡奉行となっていたが、(「豊前小倉藩御侍帳」『豊津町史』より) 十三年後の寛永五年(1628)九月二十一日の『日帳』に「田川郡河喜多五郎右衛門・釘本半左衛門より、松茸十五本」を忠利に上げていることが記されている。
当時、岩石(がんじゃく・現・添田町)は松茸の名産地であった。両氏は長いこと、田川郡に関わっていたのだ。
やがて五郎右衛門は肥後国転封後の寛永十一年(1634)に国惣奉行となる。
藩主忠利はキリシタン家臣の存在を認識していて、敢えて五郎右衛門を奉行の総責任者に任命したと考えられる。

田川郡では要所にキリシタン家臣を配することにより、鉱山キリシタンを幕府による厳しい穿鑿から護っていたのではなかろうか。
慶長十九年(1614)の忠興時代に多くの家臣が一旦は転宗又は棄教をしているが、忠利小倉城入城の元和七年(一六二一)にキリシタンに再び立ち返ったと考えられる。
それは、この三名の他に二十四名のキリシタン家臣が肥後国転封後の寛永十三年(1639)に転び証文(転宗の証)を提出しているからだ。(『肥後切支丹史』上巻 上妻博之編著 花岡興輝校訂)
香春岳城(鬼ヶ城)主だった忠興の末弟・孝之(休斎)の元和九年(1623)頃に出奔することになる原因は忠利のキリシタン擁護の姿勢にあったのかも知れない。
孝之は居館を構えた高座石寺は後の絵踏寺となるが、父泰勝院(藤孝・幽斎)の菩提の五輪塔が現存している。

 衛門墓(えもんはか)

キリシタンの郡奉行と新銭鋳申奉行を配された田川郡の金山にはその痕跡を残すこととなる。
小説『青春の門』(五木寛之著)で有名な香春岳は現在、山頂が大きく削られて平らになっている一ノ岳、その北側に二ノ岳と三ノ岳と三つの山からなる。
特に三ノ岳付近は奈良時代から銅の採掘が行われ、奈良の大仏や宇佐神宮の神鏡もここの銅が使われたという。(『秋月街道』福岡県教育委員会)
この採銅所という地名はかなり古く、細川藩時代にはすでに使用されている。
採銅所の五反田東方と龍ヶ鼻西麓の二ヶ所に坑口(間歩)を残している初音金山(百舌鳥原金山)では、百舌鳥の形をした金塊が出たと伝承が残る。
また、五反田には女郎松といって樹齢がおよそ四百年と言われる松があり、その根元には女郎墓がある。近くには遊女屋跡地も残る。(『郷土史誌かわら第二集』)
田川郡香春町中津原浦松地区にある愛宕山照智院は愛宕大権現社境内にあり、かつての神仏習合の形を残している。
昭和五十年から始まった護摩焚きは、今では年間行事として毎年二月、地元の人々で賑わっている。
鳥居の石段手前に庚申橋という小さな橋があり、その側に庚申塔が建っている。
その塔を挟むように二基の石祠が祀られている。
今にも倒れそうな祠はかなり古いものと一目で判断でき、その苔むした観音開きの扉にはギリシャ十字が浮き彫りにされている。
地元の人たちは水神様としているが、これらの石祠に関する伝承がある。

   「陵墓 衛門墓ト云フ 村ノ南方字鈴麦ニ碑二個アリ其形常躰ナラス 異容ニシテ最モ古風ヲ存ス 文字ナク又号
   干支其氏墓寺古記里言共ニ傳ハラス」(『豊前村誌』)
(陵墓 衛門墓という。村の南方鈴麦に墓碑が二基あるが、その形は普通ではない。異様にして古いものである。文字もなく、又年号や名も菩提寺も不明である。)
まず、『豊前村誌』の成り立ちから時代背景を探ってみよう。
明治新政府は明治五年(1872)に旧福岡県(筑前十五郡)に『福岡県地理全誌』編纂の命令を下す。
明治五年から七年にかけて調査し、五年から十三年(1880)に編纂された。この全誌から「小倉県」の部を『豊前村誌』として刊行したのである。(『福岡県百科事典』下巻)
当時、田川郡は豊前国豊津藩(後の小倉県)に所属していた。(『角川日本地名大辞典』) ちなみに明治六年(1873)はキリスト教禁制が廃止された年である。
この頃の情報をもとに編纂されている。
「鈴麦」は初音金山より南へおよそ一キロメートル下る採銅所に位置する。
「衛門」は加賀山庄右衛門と考えられ、つまり隼人であり、六千石の大身であった。
鈴麦地区の古くからの住民に聞くと、小高い裏山には金の採掘場所と館跡があったと伝えられているという。
これらの石祠は加賀山隼人に言及していると見て間違いないだろう。

            中津原浦松地区にある二基の石祠(台十字架は右)

            ギリシャ十字架          台十字架

 グレゴリオ.デ・セスペデス

隼人の死により、小倉藩領のキリシタンは一本の大きな柱をなくした。
しかし、隼人の遺志を継ぐ長女みやとその夫小笠原玄也がいた。
隼人の殉教の翌年一六二〇年の記録に「神父中浦ジュリアンは筑後と豊前に出かけた。彼は同地で数多の流人を見出した。
その中には、殉教者ディエゴ加賀山隼人の聟(むこ)とその家族がいた」(『日本切支丹宗門史』)とある。
天正遣欧少年使節だった中浦ジュリアンは小倉藩領内に潜伏し、キリシタン流民を見つけ、小笠原玄也とみやの家族と遭遇した。その様子も伝えている。
「この名門に生まれて愉しい日を送ってきた士(玄也)が、晴々として財産や故郷を捨てて現在の境遇を選び、今や極貧の人たちの間に交ざって、百姓の姿(蓑を着ていた)をし、その日その日糧を得んがために賤しい労働に従っているのは、感動すべき光景であった」(『日本切支丹宗門史』)
忠興に仕えていた玄也は殉教を覚悟したが、身内である細川家から「庇護」されることになり僅かな扶持を受けながら山中に入ったのだ。
これこそ、玄也が鉱夫になり働いている姿が浮かぶ。玄也家族はキリシタン流人と共に採銅所にいたと考える。
玄也やみやらが父隼人の墓を建てたことは容易に想像できる。
では、もう一基の墓は誰だろう。
観音扉に刻まれた十字架が微妙に違う。十字架に台があるのだ。それはイエズス会のシンボルである。
隼人と並んで祀られるイエズス会士はただ一人、グレゴリオ・デ・セスペデスをおいて他にはいない。
「カスティリア人でマドリード生まれのグレゴリオ・デ・セスペデス師である。彼は霊的指導司祭で、すでに六十歳になっていた。
イエズス会に入って四十二年、その三十四年間は日本で過ごした。霊魂の救済にこの上ない情熱を絶えず注ぎ、努力を惜しまず大いに努力していた。
この情熱は、特に豊前の国の教会で示されている。豊前は、彼が最初に種をまき、長い年月をかけて水をやり、我らの主は、日々、新たに成長をもたり給うた」(『一六一一年度イエズス会日本年報』)
セスペデスは大阪教会時代に忠興の室玉子(細川ガラシャ)を洗礼に導いた神父である。ガラシャの生涯に唯一出会ったキリスト教の師であった。
忠興より招聘され小倉で一六一一年に倒れるまで中津や小倉にてガラシャの追悼ミサを挙げ、藩内キリシタンへ信仰人生を捧げた。
それだけに彼の死にキリシタン達は深い悲しみに包まれた。
「深い悲しみに打たれ、誰も皆、その情愛溢れる師父の死に涙を流して悼んだ。師父が亡くなられた土地の領主(忠興)はそこに埋葬することを許さなかったので、長崎へ運ぶために遺骸を棺に収めようとしている間にもキリシタンの群れは次第に増えていき、昼夜問わず、能うる限りの悲しみの情を見せ、死者の足に抱きしめたり口づけしたりして、とめどもなく涙を流していた。
この悲しみの情は、葬儀の行われた時にいっそう高まった。棺が閉ざされた時の皆の嘆きは、実の父親が死んだ時に勝るとも劣らぬものであった。彼らに対する師父の大いなる愛、あの慈愛に満ちた顔、情愛深い優しい物腰、どのような困難
でも、あらゆる企てに飽くことなく挑戦するあの心意気、魂の偉大な情熱を思い起こせば、誰もが師父を称賛するであろう」(『一六一一年度イエズス会日本年報』)
小倉の民を心から愛していた神父の姿が偲ばれる。
翌年に幕府の禁教令が発令され、忠興は従ったために領内でのセスペデスの遺体の埋葬を許さなかった。長崎に運んだとされる。
しかし、次の加賀山隼人の殉教を伝える記録には「聖遺物」が残されている。
「ディエゴ(隼人)は彼らに(迎えに来た者ら)感謝し、夫人と娘を呼び寄せて、聖なる最後の教訓を与えた。
次いで、彼は十字架の下に平伏し、世の救主、及び聖母に自ら薦めた。
彼は、彼の精神的師であるグレゴリオ・デ・セスペデス神父の尊き贈物である洋服と美麗な修道服(マント)を着け、小舟に乗って刑場に行った。
同国の城下町から一里下った。ディエゴは、到着するや修道服を脱ぎ、同行の一キリシタンに之を与えた。
次いで、彼は履物を脱ぎ、裸足で丘に登りたいといった。遂に、彼は首切り役人の手に渡り、致命の一撃を受け、(一六一九年)十月十五日、五十四歳で落命した」(『日本切支丹宗門史』)
小倉藩キリシタンの柱石であった隼人の最後である。
「彼は他のキリシタンたちの父のようで、またイエズス会の大切な保護者であった」(同掲)
隼人はセスペデスの洋服と修道服を贈られていたのだ。
遺骸の一部も隼人の手に渡っていたことが考えられる。
これらの「証拠品」から、墓碑が採銅所に建てられたのは隼人殉教の年である元和五年(1619)以降であり、同時にセスペデスの墓碑を建てたと考えられる。
小笠原玄也家族は先述の通り翌年には中浦ジュリアンと会っているからだ。
つまり、イエズス会士中浦が墓の建立に関与し、両氏の追悼ミサを捧げたのではなかろうか。
隼人殉教の同日に豊後国日出藩にてもう一つの殉教があった。
藩主木下延俊も義兄の忠興に従い、隼人の従兄弟であるキリシタン加賀山半左衛門に斬首を言い渡した。
殉教を望んだ半左衛門に四歳なる息子がいた。
「息子ジャコモは、父の膝に絡まって、イエス・キリストのために一緒に死にたいとせがんだ。」そして、「幼い子供は、(父の)聖なる遺骸の前に跪き、幸福な父の後を追って死んだ。」(『日本切支丹宗門史』)
現在、二人の殉教を偲んで日出殉教公園(旧日出藩成敗所跡)がその悲劇を今に伝えている。
半左衛門とジャコモの遺骸は妻が引き取ったと考えられる。しかし、その「聖遺物」の一部が隼人の家族に渡ったとしたら、隼人の墓に収まるだろう。
それはセスペデスは藩内のキリシタン達の心の拠り所であるからだ。加賀山家のそれとは別なのである。
玄也やみやが金山でコンフラリア(信徒組織)を率先して、多くのキリシタンを導いていたと考える。

いつの唄なのか。金山の唄が残る。(『郷土史誌かわら第六集』)
     ここは九州北端の 小倉の南五里行けば 
     伝いも古き採銅所 村の西部の連山に
     黄金、赤金堀りいだす 大幸鉱山ここにあり
     金掘る男子ゆる乙女 村の栄は国の富
     務やはげめや汗ふいて
採銅所鈴麦にあった石祠が何故に中津原に移動したのか。
実は中津原も彦山入峰経路であり、当時の愛宕大権社の敷地はかなり広く、石祠は境内の片隅にひっそりと置かれたのではなかろうか。
移動された時期は不明だが、おそらく明治四年(1871)の修験宗禁止令の発令直後だろう。
「山伏」やキリシタンらに祈りを捧げられていた「衛門墓」は、彦山修験道の歴史と共に終わりを迎え、中津原に運ばれたのではなかろうか。

 弁城金山町(べんじょうかなやままち)

呼野金山から金辺峠を越えて龍ヶ鼻、初音金山、採銅所、薄霧山(牛斬山)を越えて弁城、伊方、上野(あがの)と金山キリシタンは流れていった。
伊方は伊方・弁城地区である。2006年の金田町、赤池町と合併し福智町となったかつての方城町(1889年、伊方村と弁城村が合併)である。
地元『方城町史』から「柿波治朗兵衛墓」の項を引用する。
   「弁城宝珠山町の墓地に、柿波治朗兵衛の墓がある。この柿波氏は毛利長門守の家臣であるが、元和年間(1615~
   23)当町に来住して鉱山業を始め「盛大にして四集の民忽ち市街を成す、之を金山町と云う」と記録されており、
   元禄年間まで約七十年間継続された。
   現に宝珠の堀江紋三氏の屋敷前の畑一帯から製錬の址が発見されている。
   墓は一・七〇米花崗岩切石二段台のものにして表面に「元禄六癸酉五月・・」とある。」(元禄六年は西暦一六九三年)
非常に興味深い記述である。
「柿波氏」は長門守毛利秀就(ひでなり)の家臣「柿並氏」である。
柿並家は大内義弘の次男持盛(もちもり)を祖とする名家であった。(『十八世紀萩藩における文書管理・記録作成と藩士柿並市右衛門』山崎一郎)
持盛の孫弘慶(ひろよし)が長門国阿武郡川上村の柿並谷に拠点を構えた時に、姓を「大内」から「柿並」に改めた。
その後、大内家没落後に毛利輝元や秀就に仕えた。(『萩藩諸家系譜』岡部忠夫)

弁城に入った「治郎兵衛」は弘慶の曾孫幸慶(ゆきよし)の時代だ。出自は不明だが、一族と考えて間違いないだろう。
享保五年(1720)から編纂された『閥閲録』の「足軽 阿曽沼六左衛門組」に「柿並次郎兵衛」の名がある。これは古文書や家系図を編纂しているから、時代考証しなければならないが、同一人物だろうか。(『萩藩閥閲録』)
最も重要なことは「治郎兵衛」は何故に弁城村に入ったのだろうか。
寛永元年(1624)の細川家『日帳』に「はふや忠兵衛、中国へあかかねかいに参るべし」(九月二十日)とあり、精錬技術を持った灰吹屋忠兵衛が中国地方に赤銅を仕入れに向かっている。
またこの時に藩主忠利から「御奉行を一人」と共に行くようにしたが、「小倉からの横目・奉行など」と言えば相手(売手)
がどうかと思うから、言う必要がないと命を受けている。
「相手」は気になるが、忠兵衛は「赤銅」という重要なミッションを帯びていた。
忠兵衛は領内の金山の見立ても行っており、かなりの専門家である。日本初の灰吹技術が開発された石見銀山(島根県)出身かも知れない。
実は、忠利死後の慶安元年(1648)にキリシタン嫌疑で穿鑿を受け、その後、閉門赦免となっているが、(『熊本藩年表稿』細川藩政史研究会) おそらくキリシタンだったのであろう。
毛利藩の領地である長門や周防に、小倉教会の司祭が多くのキリシタンを訪ね、信徒組織である「聖マリア会」(さんたまりやの御組)も設立している。
その司祭はセスペデスの補佐を行なっていた天正遣欧少年使節の伊東マンショである。(『一六一一年度日本年報』)
セスペデスの死後、伊東マンショとカミロ・コンスタンツォが忠興により追放される直前に小倉藩領のキリシタンから補助者を選び、組織を再構築している。
「以前ある時期にすでに信徒らを幾つかの組に分け、司祭によって選ばれた、より経験を積んだキリシタンに、それぞれの組を指導させたことがあった。
今再びこの組を形成し、新たに教育してをして、他の物の世話をする者を育てていた。
どのように信徒の信仰を守り、必要な時にどのように洗礼を授け、死者を救うためにどのような葬儀やその他のことを行うのかなどと。
かくてすべての者に、年長の信仰に精通した相応しい伴侶が与えられた」(『一六一一年度日本年報』)
また、小倉藩領内では禁教令後の元和三年(1617)にイエズス会は小倉や中津に四十八名の司祭の補助者を選んでいる。細川家家臣や地元有力者が目立つ。(「イエズス会士コーロス徴収文書」『近世初期日本関係南蛮史料の研究』松田毅一)
忠兵衛が向かった中国地方はその頃に活況を呈していた蔵目喜銅山(阿武郡阿東町)だった可能性がある。
この地にもキリシタンが潜伏していたことだろう。
また、銅だけでなく、鉄にも注目しなければならない。やはり阿武郡に白須たたらがあり浜砂鉄で製鉄していた。
小倉藩も呼野金山で鉄の試吹きを行っている。(寛永五年二月)
阿武郡に隣接する紫福(しぶき)の大板山たたら製鉄遺跡(世界遺産構成資産)も江戸中期から発展している。
紫福地区には「隠れ切支丹遺物」があり、「仏光寺」や「長久寺」にキリシタンの墓と思われる石祠や伴天連の墓(六角形の墓石)、マリア観音やクルスの紋が伝えられている。(萩市観光協会公式サイト)
禁教令後に多くのキリシタンが山中に逃げてきたという。
また、「萩市切支丹殉教者記念公園」(萩市堀内)には、キリシタン熊谷元直と天■元信の殉教碑や配流された長崎浦上村のキリシタンの墓が並んでいる。
豊前小倉藩と阿武郡との接点は歴史的事件により繋がることになる。
慶長十七年(一六一二)の「舟島の戦い」、世に言う「巌流島の戦い」である。
宮本武蔵に負けた佐々木岩流(小次郎)の墓が阿武郡福賀に現存するという。
阿武町役場のホームページから一部を抜粋する。
   「阿武町大字福田下、小字を小沢津といい、その山あいを寺ヶ浴と称する。慶長年間又はそれ以前から真言宗正法
   寺という古寺があった。
   巌流島の決闘で敗れた佐々木小次郎の妻ユキはキリシタンであった。当時懐妊中のユキは小次郎の遺髪を抱き、折
   柄厳しいキリスト教の禁令により多くの信者とともに山陰の地に安全な居所を求めた。
   ユキは、この地の正法寺に身を寄せ剃髪して尼となり、夫小次郎の冥福を祈り菩提を弔うために墓を建て、庵で一
   生を終えた。」
墓石の裏面には「佐々木古志らう」とある。「古」と「志」を当てたのは、クルス(十字架)を含んでいるからだ。また小次郎の墓の側には六面石の墓があり、ユキは伴天連墓(司祭の墓)と信じていたという。
佐々木小次郎の出自は諸説あるが田川郡副田庄(添田町)との説もある。(『彦山・岩石城と佐々木小次郎』(下)梶谷敏明)
さて、慶長十七年は徳川幕府より直轄地や大名家にキリスト教禁教令が発令された年であり、藩主忠興が保護から一転して迫害を始めた年にあたる。
当時、藩の剣術師範であった小次郎は武蔵との決闘に挑むことになるのだが、藩家老の沼田延元の家臣による『沼田家記』(1627年)によると、武蔵は小次郎に勝ったものの絶命に至らず、武蔵の弟子らにより撲殺されたという。
その後、武蔵は延元の保護により、日出藩へ送られたとある。
ここから見えてくるのは「小次郎暗殺」である。
小次郎もユキと同じくキリシタンだった可能性はある。
忠興のキリシタン排除の一環としてキリシタン小次郎をどうしても殺さなければならなかったのかも知れない。
小次郎の年が不明だが、武蔵よりもかなり年がいっていて七十歳に近かったといわれる。そうであれば妻ユキの懐妊は創作の域を超えない。(可能性はあるが)

             佐々木小次郎の墓(阿武町のホームページより)

中国地方でのキリスト教の最初の種まきはフランシスコ・ザビエルから始まった。
天文二十年(1551)、ザビエルは山口にて大内義隆に謁し、布教の許可を得て、およそ二ヶ月の滞在で五百人に洗礼を施した。
後事を託されたコスメ・デ・トーレスは弘治元年(1555)に教会堂を落成した。大道寺である。
琵琶法師ロレンソ良斎と共に尽力したために、信徒の数は二千人に上った。(『イエズス会日本年報』上 村上直次郎訳)

先述したように、小倉教会の伊東マンショは「長門、周防の両国に多数のキリシタンを訪問し、更に毛利の城下山口の諸天主堂や日向の一部にも出かけた。」(『日本切支丹宗門史』)とあり、中国地方にかなりのキリシタンがいた。
毛利輝元の時代だが、禁教令下にはキリシタンへの弾圧があったが、叔父の毛利秀包(ひでかね・久留米藩藩主)の妻マセンシア(大友宗麟の末女)が長門・周防に宣教師を招いたことやキリシタンの豊後国岡城主志賀親次を領内で匿ったことなどある程度の理解はあったのだろう。(親次の墓碑が山口県宇部市小野地区に現存)
しかし、嫡子秀就は迫害に拍車をかけた。
「彼は城下町の萩で五人のキリシタンを火炙りにし、二人の家臣は夫々自宅で斬首された。」(『日本切支丹宗門史』一六一八年の条)
やがて身の危険を感じた二十歳そこそこの柿波治朗兵衛が弁城・伊方の鉱山地区へ入ったキリシタン「山師」ではあるまいか。
ひょっとして元和元年(一六二四)に忠兵衛が「赤銅」として連れ帰ったのかも知れない。
ちょうど、この年は呼野や採銅所での採鉱量が減少していた。新たに開発するために高度技術を有する「山師」を必要としていたのだろう。
現在、この地に久留守池(クルス池)という名の池がある。
池辺で見つかった壺の中に木製宝珠、木製十字と手鏡(大吉銘柄)があった。(久留守出土キリシタン聖物 福智町教育委員会)
手鏡は幼児洗礼する時に太陽光を額に当てるために用いたという。(平戸市切支丹資料館)

                  久留米守池

 

 上野(あがの)

慶長七年(1602)、忠興は朝鮮陶工尊楷(上野嘉蔵高国)を迎え、上野村堀田小字釜ノ口に藩窯を開き、上野焼の基礎となった。(『陶磁器の道』李義則)
釜ノ口の東には弁城岩屋の谷に岩屋高麗窯がある。何故、この地を作陶の拠点にしたのか。
まず、「釜ノ口」周辺の小字名に「釜蓋」、「鋳物師原」(『日本陶磁大系』第十五巻 高鶴元)とあり「鉄」に関する名称があることから、鋳物師や金山関係の集団がいたと考えられる。
かつての村名「赤池」も鉄から由来していると地元では伝えられている。上野焼の伝統的釉薬「鉄釉」も有名である。
釜ノ口窯開窯から二十年後の元和八年(1622)に忠利は『田川郡家人畜御改帳』を作成させている。
弁城村は五六五人、上野村は六一一人とかなりの人数である。
ちなみに弁城村と上野村には鋳物師が各二名、弁城村焼物山に焼物師五人、上野村焼物山に八人いて、多くの家族や使用人(共に六十数名)もいることから作陶が盛んであったことがわかる。
しかし、農業以外に考えられるのは、堀子である。金、銀、銅、鉄の鉱石や砂を採取するのである。
そうであれば、先述の山師「柿波治兵衛」の「金山町」の話と一致する。
また、弁城から上野は福智山への彦山峰入り経路であり、山伏は薬草のみならず鉱石の知識があったと考えられる。
田川郡の金山はほとんど彦山入峰経路と一致しているからだ。
細川家は「身内」の座主の関係から山伏らから情報を得ていたに違いない。

釜の口窯から江戸初期の作品と思われる陶片が発見された。
ここでは二片紹介しよう。
一つは三本の角を持ち、顎髭が生えている顔である。それはまるで悪魔バフォメットのようである。
もう一つは顔の半分を覆った髭のようで穏やかな顔である。
この二つを比べると悪魔と神のようだ。
形から小さめの聖水盤と見ることもできる。
しかし、デザインからいってキリスト教の知識がなければならない。また藩窯であるから、一般からの注文とも考えられない。
考えられるのは初代小倉教会長グレゴリオ・デ・セスペデスである。
注文主は忠興である。

釜ノ口窯から出土した陶片(左は三本の角を持つ顔、右は顎髭の顔)

 

■初蝉

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 二三日前、わがAPの階段に蝉がいるのを見かけたが、今年はまだ蝉の鳴き声をきかないことに気づいた。
昨日は風雨の強い一日で散歩をさぼってしまったが、今日は曇りがちの空模様で風もあって心地よい。
さて歩こうと出かけたら、自衛隊の構内の木立から初蝉の鳴き声に遭遇した。
そこで歩きながら駄句を一句

              初蝉や 聞いて暑さのつのりけり   津々   
        
 早いもので今日はもう七月、令和二年も半年を過ごしてしまった。コロナ騒動での蟄居生活の中でも欠かさず散歩だけは続けた。
最近は散歩人口がやや増えて、後ろからやってくる人たちがどんどん追い抜いて行く。
暑さばかりのせいではなく、脚力が落ちて所要時間が随分増えたように思える。
奥方が「距離を減らしたら」というが、距離を減らすためにはコースを変更しなければならない。
この暑い夏の間、奥方の言葉に甘えてみようかと気持ちが揺らいでいる。そのままずるずるとなりそうな気もするが・・・

■志方半兵衛言上之覚・釈文‐ 37(原文43分)

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43         越候へとハ申兼候由申候ニ付未嶋原へさつま
          人数参候ニ極たる御さたハ無御座候
         一立花殿松倉殿今迠之御持口なべしま殿持口
          之方へくり候て右御両人之あと 肥後様へ渡り
          今日ゟ御請取被成頼母与一手被遣候 残御人数           頼母=有吉英貴
          ハ于今後陳ニ被 召置候事
         一右之趣可然様ニ可頼御披露候恐惶謹言
             正月九日       半兵衛
             諏方猪兵衛殿
          佐藤八太夫罷上申候条謹而致言上候
         一大矢野にて之儀爰元ニても左様之御さた御
          座候へ共実正一切知不申候 能尋重而言上可仕候事
         一爰元 上使衆ゟ之御手立之被 仰出何共
          御沙汰も無御座候 伊豆殿左門殿去七日に
          江戸へ言上被成候而其御諚を承可被仰出との
          儀ニ御座候事
         一肥後様被成御渡海之儀 上使之御衆ゟ御                                  肥後様=細川光貞(光尚)
          注進ニて被成御渡海候哉と奉存候処ニ左様

■細川小倉藩(279)寛永五年・日帳(四月十一日)

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                      (寛永五年正四月)十一日 

         |
         |    十一日         
         |
忠利波多中庵邸ニ |一、今朝中庵ニ被成御成候事、
臨ム       |
北村作庵投薬   |一、下毛郡弥市薬、北村作庵ゟ取よせ遣候事、
         |       (仁)
         |一、御船頭続平右衛門、今日ミノ刻ニ下着、江戸ゟノ御飛脚弐人、大坂を去六日ニ乗せ下申候処、昨
飛脚悪風ニ陸路ヲ |   (播磨飾磨郡)  
トリ未着     |  朝宮ノ洲ゟ日和悪敷候て、かちを可参通申候て、参候由申候へとも、于今着不申候、右御飛脚、
         |  今月朔日ニ江戸を立、同六日ニ大坂着仕由、御船頭申候事、
         |                       (長泰)寛永五年五月七日死去
平野長泰ノ病気見 |一、来十五日ニ、鈴木助太郎同船ニて、江戸へ、平野遠州様御身廻ニ被遣候、歩之御小性藤井宇左衛
舞        |  門被遣候事、
巣隼浅野長晟ヨリ |一、浅野但馬様ゟ隼巣鷹二居被進之候、此御使者ニ御小袖弐つ・御道服壱つ・弐斗入樽三つ被遣候、
贈ラル  使者へ |      (友好)               だい・メスの鷹
小袖道服     |  御使ハ松井宇右衛門也、但、御鷹ハ弟也、
         |  (横田)      (湯浅)
烏ヲ打ツ     |一、権佐与ゟ壱人、角兵衛与ゟ壱人、両人ニてからすを此中打候へ共、御供ニ参ニ付、西沢文右衛門
惣構ノ内ノミ   |  与河並久右衛門・手嶋作兵衛、両人ニかわりとして、烏打せ申候、但、惣かまへノ内斗ニて打候
         |  へと、申渡候事、
         |                            (与脱)
江戸ヨリ飛脚ノ旅 |一、江戸ゟ為御飛脚、芦田與兵衛与之西角右衛門・杉山藤兵衛大羽理介参候、江戸を朔日ニ罷立、同
         |     ひるノ     大坂へ                                        (下松、周防郡濃郡)
程        |  六日之九つ時分ニ〇着、其儘同日ノ申ノ刻時分ニ、大坂を出船仕、昨十日ニ中国のくたまつ迄

平野長泰ヨリ家臣 |  着仕、事外日和悪敷候ニ付、かちを参候、申ノ上刻ニ、此地着申候事、右ノ飛脚弐人ニ、平野遠江
ヘノ状コトズカル |  殿ゟ、伏見ニて遠江殿内服部文右衛門所へ被遣御状相渡、切手取参候、則他国之だんニ入置候
他国ノ段     |  事
         |一、木下右衛門様へ、次飛脚にて 御書被進、御返書参候事、
寺本直正湯治ヨリ |一、寺本八左衛門、此中湯治仕、罷帰候由ニて、使者差越申由、請人住江甚兵衛被申来候事、
帰着届      |
烏丸万乗船ニ五十 |一、御万様中津へ被成御下ニ付、五十丁立ノ御舟、爰元ゟ御かり被成候、御船頭ハ糸川長左衛門被遣
丁立ノ船     |      (浄勝院、吉田兼治室、細川藤孝女)  
吉田浄勝院乗下ル |  候処ニ、吉田せうしやうゐん様めし候て被成御下候、せうしやうゐん様ゟ御帷子一つ、料足
ニ給与ノ金品   |                        ( 舵 取 )
帷子料足菓子   |  、御くハし箱壱つ、拝領被仕由被申候、又かちとりと矢倉ノものニ料足五百宛被下由被申候
         |  事、大坂を四月四日ニ被成御出船、中津へ八日ニ被成御着候、
         |  〃

              参考 上記記録は、烏丸光賢室の「万」が、叔母である吉田兼治室の「伊也」を伴っての旅であることが判る。
                翌日の記録には忠利も、二人に会うために中津へ出立している。一同に会してのことで楽しいひと時をすごされたことであろう。
                               三斎は永禄六年(1563)生 この当時65歳                 
                               三斎・妹、吉田浄勝院(細川伊也)は永禄十一年(1568)生 この当時60歳
                               忠利は天正十四年(1586)生 この当時42歳
                                                                        忠利・妹、烏丸万は慶長三年(1598)生 この当時31歳

                  +----三齋忠興-----+----忠利
                  |        |
                  |        +----  万
                  |           ‖
                  |          烏丸光賢
                  |
                  +-------  浄勝院(伊也)
                        ‖
               吉田兼見------- 吉田兼治

■肥後の手永と村(6)芦北郡

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                                       熊本藩領・手永図

■芦北郡

 1、田浦手永(手永会所・田浦村)
   田浦村懸り
    ・猪野山村 ・大木場村 ・岩屋河内村 ・宮後村 ・赤松村海辺 ・波多嶋村 ・大崎村 ・横居木村
   二見村懸り
    ・赤松村 ・大平村 ・小薮村 ・鷹野河内村 ・船津村 ・淵口村 ・白嶋村
   浜町村
   日奈久村懸り
    ・千代永村 ・田野河内村 ・馬越村 ・下塩屋村 ・小河内村
   下大野村懸り
    ・共牟田村 ・上大野村 ・窪村 ・内野村 ・田子崎村 ・平野村 ・日奈久町
   上久多良木村懸り
    ・久多良木村 ・小河内村 ・舟倉村 ・羽二田村 ・大門瀬村
   下久多良木村懸り
    ・田野宇楚村 ・上良石村 ・下鶴喰村 ・破木村 ・与奈久村 ・鎌瀬村 ・瀬戸石村 ・上鶴喰村
   大河内村懸り
    ・岩屋河内村 ・黒岩村 ・永谷村 ・内持木村 ・上原村
   吉尾村懸り
    ・市居原村 ・箙瀬村 ・白石村 ・上蔀村
   

 2、佐敷手永(手永会所・佐敷村)
   ・乙千屋村 ・道河内村 ・白石村 ・佐敷村 ・山下村 ・松谷村 ・宇戸村 ・伏木尾村 ・兼丸村 ・井手向村
   ・井樋口村 ・見附村 ・桑原河内村 ・垣内村 ・今村 ・野々木河内村 ・牛淵村 ・宮浦村 ・松生村 ・一ノ瀬村
   ・才木村 ・長浜村 ・塩後村 ・告村 ・漆河内村 ・上白木村 ・下白木村 ・大尼田村 ・立川村 ・小田浦村
   ・下宮浦村 ・滝上村 ・斗石村 ・海浦村 ・鶴木山村 ・佐敷町 ・白石村 ・宮浦村 ・下小田ノ浦村


 3、湯浦手永(手永会所・湯浦村)
   湯浦本村懸り
    ・本村 ・橋本村 ・山川村 ・平生村 ・小鷺浦村 ・大鷺浦村 ・福浦村 ・馬場村 ・寺川内村
   大河内村懸り
    ・大河内村 ・上内野村 ・下内野村 ・島屋尾村 ・飛松村 ・中屋敷村 ・吉田村 ・古道村 ・岩間伏村
    ・上小嶋村
   野角村懸り
    ・野角村 ・岡村 ・馬出野村 ・蔵谷村 ・井折村 ・中小場村 ・城迫村 ・百木村 ・猪ヶ迫村 ・豊尺村
    ・長崎村 ・久野川村
   大野村懸り
    ・大野村 ・中園村 ・松生村 ・泥泪村 ・杉園村 ・桑沢見村


 4、久木野手永(手永会所・久木野村)
   ・久木野村 ・寒川村 ・古里村 ・中小路村 ・大河内村 ・寺床村 ・越小場村 


   5、津奈木手永(手永会所・津奈木村)
   津奈木村懸り
    ・中尾村 ・津奈木村 ・日野村 ・乱橋村 ・蔵谷村
   中村懸り
    ・中村 ・吉原村 ・松岡村 ・山口村 ・桜戸村 ・野原村 ・小津奈木村
   浜村懸り
    ・浜村 ・泊村 ・赤崎村 ・福野村 ・平国村 
   上門村懸り
    ・上門村 ・野中村 ・川内村

 6、水俣手永(手永会所・陣内村)
    ・陣内村 ・田平村 ・蕨野村 ・長野村 ・出野村 ・石添村 ・江添村 ・南福寺村 浜村
   大迫村懸り
    ・上初野村 ・下初野村 ・石神村 ・小津奈木村 ・早栗村 ・大迫村
   深川村懸り
    ・深川村 ・中鶴村 ・気子村 ・深渡瀬村 ・室河内村 ・市渡瀬村 ・仁王村 ・桑生村
   葛渡村懸り
    ・葛渡村 ・石坂川村 ・荒平村 ・大藪村 ・井良迫村 ・薄原村 ・犬鹿舎村 ・桜野村 ・渡野村
   袋村懸り
    ・袋村 ・月浦村 ・神川村 ・中茂村 ・野川村 ・長崎村 ・大窪村 ・木臼野村 ・松河内村 ・湯鶴村 ・追迫村
  


■文久三年「恕斎日録」(1)

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 先に告知した如く、文久三年の「恕斎日録」をご紹介する。これは中村家のご子孫当代・肥後金春流の中村勝様からコピーを頂戴したものである。
「恕斎日録」については二巻が発刊されているが、当然ながら今回の「文久三年」については、皆さま初見の史料となる。
全321頁に及ぶ大部だが何とか二ヶ月(60回)ほどでご紹介したいと思っている。乞うご期待・・・

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01               慶應二年正月
        文久三年       再調済

     目   録        恕 斎

        癸亥正月毅旦

 

02

   鳥居を入、歌
    神のます鳥居二入れは 此身社
     日月の実やと 安らけく往

   神前を開、歌
    榊はに ゆふ取してつ 打拂ふ
     身には けかれの 霍亀もなし

  文久三癸亥年正月元日
 御礼出仕
  出仕之節、荒木甚四郎方より今度 御出京之上 御進       
         安政元年十二月(副役)~慶応三年十一月 奉行
              荒木既翁 甚四郎と称し、晩に既翁と改む。世禄百石、郡代、目付、郡目付を歴任し、
                   奉行副役を経て、奉行職となる。依りて禄百石を加増せらる。
                   明治九年一月六日歿す。年八十四。墓は高橋稲荷山東麓。
03
  上御用二付 腹赤燒鯛五拾枚差出候様 被申達候二付                          腹赤の奏
  直ニ今夕飛脚継を以相達申候事
    右 御進上御用之儀者 禁庭江米金之内御献上
    筈ニ付 目出度品ニ付御熨斗之代 御差上之御
    模様之事
    右腹赤燒鯛者 景行天皇御巡狩之節 差上候          
    供御ニ而 其後 大宰府都府樓迠 十二月中ニ差
    出 同所より正月元旦之御式ニ差上ニ相成候 目
    出度御品之由也
     右之御吉例之処 今日 御殿ニ而被申 殊更
04
     目出度御日瑞と奉存候事
 二日 年頭廻礼者追々御達之趣有之候処 当年より者御
   礼を初 御省略ニ相成候事ニ付 支配頭荒木氏より
   演達ニ相成候間 何方へも相伺候処 地震者御家老
   衆・大目付衆迠 礼服ニ而被参事ニ付 直同役中
   申談 御家老衆・御中老衆・分職御奉行衆迠 礼服
   廻り方 其外ハ御奉行中へも参る不及相定候事
    右之外 叔父以上之尊長 又者師迠ハ廻方不苦事
     右之外ハ 刑部殿・舎人殿・将監殿 眞野氏
     迠 礼服参り向方より参り候人たりとも 返礼
05
     ハ見合 縁家中ヘハ折々ニ平服ニ而参候事
 三日 社参 妙解寺参拝 廻礼之事
 四日 今日初出 平服ニ而出勤 御奉行中も平服ニ而
   詰間 例之通出方ニ相成候事
  一、今夕 帳口岩崎物部宅ニ而 嘉例之通案内 同役
    之事 御取締ニ付献立左之通  吸物 鮒 大鉢 酒鯛
    さしミ ゆくさしミ    太平 猪肉
    久年母 山芋 岩石玉子     のつぺい
 五日 泰勝寺参拝
   熊之助様御参詣ニ付 暫控居候処 住寺ニ出会候付        
   直ニ庫裡ニ被呼 年酒を振舞 万之允同役三四人
06
   も御先番ニ而参り 一座ニ而宴会帰りニ本山   宅
   へ立寄候事
 六日 公参湧泉庵参詣之事
   方丈へ立寄 貫主より浪華酒之口明振舞之事
     晒葛二箱持参   深情之饗應なり
 七日
 八日
   一荒尾より今朝八時 腹赤鯛六十枚 宰料六人相揃
    小倉へ差立 来ル十五日比迠ニ大坂へ相届可申段
    相達 右試として燒鯛貮枚差出候ニ付 壱枚者翌朝  

■細川小倉藩(280)寛永五年・日帳(四月十二日)

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                      (寛永五年正四月)十二日 

         |
         |    十二日         
         |
         |    (長元)小笠原備前家二代・長基とも、ガラシャ夫人に殉死した少斎の嫡子 6,000石             役26,600,000円
小笠原長元困窮シ |一、小笠原備前殿御手前不成ニ付而、寛永四年ニ 御袖判壱枚被仰請、上方にて銀弐拾貫目御借用
借銀二ツキ忠利ノ |  候、左候て、当春被成御請返、 御袖判被差上候、則飯田才兵衛を以、 御前へ上申候処、御前
袖判ヲ乞ウ    |                                            〃
銀二十貫上方ニテ |  判御やふりなされ御出候、又備前殿右之 御袖判請返上可申との請状、 御前ニ上被置候をも、
ノ借状ヲ請返ス  |                         (松井興長)
忠利借状ヲ破棄ス |  同前ニ 御前ゟ出申候、明日上方へ便宜御座候ニ付、式ア殿ゟ備前殿へ御上せ可有由、■■被仰
         |  越候間、則式ア殿へ持せ遣候、
         |
書状音信物ノ覚書 |   鈴木助太郎へ渡申 御書・御音信物ノ覚
         |                    (忠重)
塩鴨鰤塩引    |  一、御書壱つ 塩鴨卅 ふり塩引五 松平大膳殿へ、
         |                    (勝之)
         |  一、御書壱つ 塩鴨廿 ふり塩引五 佐久間大膳殿へ、 
         |  一、大坂ニ而、御家中四与頭衆へ 塩鴨卌、
         |     (勝永)  (武次)
         |  一、寺尾左介・牧丞大夫ニ    御樽二宛、
         |  一、上林峯順へ         御書壱つ、
         |        (へ脱)
         |  一、上林味卜          同
         |  一、沅西堂へ          同
         |  一、小田豊斎へ         同
         |         (田脱)
         |    右之分ハ飯才兵衛目録前
         |
         | (米田是季)(小笠原長元)(沼田延之)(志水元五)
         |一、監物・備前・勘解由・伯耆へ   御書一通、
鮒鱒鮓      |一、井上源三郎ゟ鮒鮨桶壱つ・鱒壱つ進上仕ニ付、 御書一つ、
忠利書状譲渡ノ覚 |  明日歩之御小姓藤井宇左衛門ニ、御鉄炮衆弐人被成御添、被遣候ニ、相渡 御書数之覚
         |             (長泰)
         |  一、御書箱壱つ   平野遠江様へ、
         |           毛利殿(秀就)
         |  一、同壱つ     松平長門様へ、
         |           (松野親英)(町)   (小篠)
         |  一、同弐つ     織ア・三右衛門・次太夫所へ、
         |  一、状壱つ     右参人へ、我等共ゟ、
         |
         |  一、状壱つ     遠藤安斎・岩間六兵衛・狩野是斎、我々ゟ、
         |  一、同壱つ     六兵衛・安斎へ、我々ゟ、
         |  一、状壱つ     神西與三右衛門へ、我々ゟ、
         |    右之分藤井宇左衛門ニ相渡申候也、
忠利中津へ出立  |一、殿様今日中津へ被成 御座候、御泊ハ椎田也、           叔母・浄勝院、妹・烏丸万中津来訪中
椎田泊リ     |

■御恵贈御礼「京都美耶解 前編・中」

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                                                          右から二冊目が「前編・中」編である。

 「芦屋古文書に親しむ会」の寺井正文氏からご恵贈たまわった。厚くお礼申し上げる。
寺井氏は細川藩士・寺井家、つまり田邊城に籠城した寺井道運・吉右衛門父子のご子孫である。
長くご厚誼をたまわっているが、文久三年京都守護を命じられた細川護美に随伴した同じく細川藩士・岩崎直衛がその間、京都で見聞した事柄を、「京都美耶解(きょうとみやげ)」と命名して全五巻にわたって記した貴重な記録である。
まさに一級資料であり、その内容は「肥後藩国事史料」等にも多く引用されているものである。
十余名の会員の皆様が分担して解読に当たられ、又寺井氏が膨大な参考文献から、年表・注釈(399項)・人名索引などを担当されている。
まさに、古資料研究の見本ともいうべき見事な出来栄えに驚嘆している。会員の皆様のご苦労にも敬意を表するものである。

■文久三年「恕斎日録」(2)

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07
   荒木氏贈る事 右之趣ハ御奉行衆相達

 九日 今夕 荒木氏へ参る 右之挨拶等有之 丑之助よ
   り浪華酒を振舞 夫より蒲池・藤本両氏へ答礼之
   使も有之 何方に而も年酒饗應 大ニ酩酊 藤本よ
   り人を添遣し候事
 十日 病中 下湯を服 夜前吐 今日腹痛なり 當月
   五日吐 夫より日々腹痛いたし候事
 十一日 出勤 十一日目録相済
   今夕立寄 中富手永三役中相揃宴会
   右之外ハ明十二日薩州御縁女様 南関御昼 高瀬御                                             「文久の改革」に伴う大名妻子の帰国の緩和に伴うもの(島津斉彬の子女二人)                           
08
   泊りに付 三役いつれも出役等に而 御惣庄屋代算
   二而相済申候 此列者右相済候上ニ而 年酒振舞候筋
   也
   惣躰 立寄ハ松巖亭様御在勤之節迠ハ無之 其後相            松巖亭=中村恕斎の祖父・正彜、奉行700石
   始り 年増盛ニ相成 近年者崎支配も総而参り 数
   十人一同ニ集會 夜ニ入 深更迠も推参いたし候者
   も有之候間 旁以當年より自分之支配所外ハ罷越不
      □ 相示候事
    献立
   土器取遣 数子添 吸物 蛤大鉢 塩鰤・鯨の青ミ 太平 竹輪人参生芋焼豆腐
09
   手塩皿 壱人ニ壱枚完ニ賦り候事 
    家来 握飯燒餅 塩菜にしめ 是迠組重酒を出し候処、此分ハ相省
   右献立品柄申談左之通
   一鉢肴 鯨・海老・下品貝類 しゃく ゆて玉子 塩鰤  
     右品之外 不段者不苦 尤可成肴類ハ三品
   一□(羹か)竹輪 干鱈 姥貝 硴
     右之中より見斗 前之通献立いたし候事
    一統申談之献立ハ旧冬録し置候得とも 尚又左ニ
    記 為弁利
      覚
10
   一上ニ懸候祝席
    吸物 一類 硯ふた 丼 壱つ
   一親しミ咄し等之節
    吸物 一種 丼 弐つ 但太平出し候節ハ丼壱ツ減
   一同役寄合之節ハ是迠之通 但以前より二種迠ニ付不及省候也
 十二日 薩州御縁女様 今日南関御昼ニ而 高瀬御泊りに
   付 坂下江早朝より出立之事
    但 御昼場ヘハ御用差支之節ハ出方ニ不及 御泊
    所迠出方いたし候事
   今夕申ノ下刻 高瀬御茶屋御着 永徳寺町内より

11
   拝見いたし候御縁女様十四歳 御妹子御九歳 薩州            十四歳御縁女・島津斉彬三女・暐姫(のち島津忠義正室)
   先ノ少将様御息女ニ而 御縁女様へ者當着之御前             九歳同           ・  同 五女・寧子(のち同上継室)
   様ニ御成り成候筈之 御方様之由御供御女中四十四            先の少将 島津斉彬
   人 御行列美々敷 殊更 御駕尤結構ニ相見候事
    □橋之御挨拶として芭蕉布二反被下候事
 十三日 御縁女様 朝六時前 御発駕 今晩河尻御泊り
   之事
   今朝社参 神酒頂戴 神主小山主殿へ御祈祷相頼
   候事
    翌日 御守ハ木下初太郎出府持参 御札ハ詰所へ張
12
    置候様申付候処 直ニ張置候段申出候事
   今朝 四比より出立 桃田懸井出床塘手御普請等見
   分 小田會所立寄 帰着ノ事
    小田會所ニ而ハ御惣庄屋丸谷平左衛門当所へ所替
    候付 小子立寄候に付 祝酒を出し可申談申出候
    ニ付 冷酒ニ而 肴ニ生硴ニ酢かけ 久年母二品
    ニ而相済候事
 十五日 稽古初之事
   番組 囃子
    竹生島 門理 安宅 助次郎 櫻川 嘉一郎 烏頭 伴馬                     嘉一郎=中村恕斎の嫡男

■肥後の手永と村(7)合志郡

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                                       熊本藩領・手永図

■合志郡

 1、大津手永(手永会所・大津村)
   ・大津村(後迫、松古閑)・塔迫村 ・苦竹村 ・新村 ・中尾村 ・南方村 ・入道水村 ・柳水村 ・馬場村(北方、土間)
       木編ニ荅
   ・新町(□木、新町ㇳ云)・小山御領村 ・石原村(吉原)・弓削村(山尻、久保)・下津久礼村(今石)・上津久礼村
   ・大堀木村(皆尻)・津留村 ・川窪村 ・中代村 ・中代出分村 ・下町村 ・下町出分村 ・灰塚村 ・町村
   ・中嶋村(寺崎)・下陣内村(梶村)・中陣内村 ・上陣内村 ・森村 ・吹田村 ・大森村 ・瀬田村 ・立野村
   ・引水村 ・平川村(御所原、高場、猿渡)・古城村 ・真木村 ・片又村 ・上中窪田村 ・尾足村(片河瀬)・高柳村
   ・小原村 ・柚船村 ・平村 ・高永村 ・高永出分村 ・妻越村 ・河辺村(古閑原)・杉水村(今村、小林)・井藤村

   たかば
 2、竹迫手永(手永会所・竹迫村)
   ・竹迫村 ・御領出分村 ・上古閑村 ・御領村 ・野付村 ・群村 ・須屋村 ・二子村 ・平嶋村 ・原口村(穢多村)
   ・大池村 ・鹿水村 ・中林村 ・後川部村 ・江間村 ・弘生村(穢多村有)・南弘生村 ・辻村 ・東村 ・鳥栖村
   ・灰塚村 ・上生村 ・北村 ・田嶋村 ・南田嶋村 ・小権崎村 ・猪目村 ・内嶋村 ・橋田村 ・坂井村 
   ・三万田村 ・久米村 ・高江村 ・福本村 ・富村 ・富村出分村 ・村吉村 ・富納村 ・永村 ・永村出分村
   ・住吉村
   

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