「永青文庫」の名称の「永青」は細川家の菩提寺である永源庵(建仁寺塔頭、現在は正伝永源院)の「永」と、細川藤孝の居城・青龍寺(勝龍寺)城の「青」からとられている。
永源庵については「永源師檀紀年録」に詳しいが、細川家とのかかわりは古く、観応二年(1351)細川頼有が永源庵の無涯仁浩と師檀関係を結んだことから始まっている。つまり「永源師檀紀年録」とは、永源庵と細川家の師・檀の関係の始まりからの記録という事である。
県立図書館も所蔵しない、自慢の蔵書「永源師檀紀年録並付録 : 正伝永源院蔵本」
一方青龍寺はもともとは勝龍寺であったが、いつの比からか承知しないが龍を青にかえて同じく「しょう」と読ませている。
この地は細川家由緒の地としているが、その真偽については最近では否定する説が多いようだ。
藤孝(幽齋)がこの地に入った時期についても、確定的なものは見受けられない。
細川家の記録では、元亀二年(1571)十月十四日付の信長の印判状が一番古いようである。
勝龍寺要害の儀に付ては、桂川より西、在々所ゝの門並人夫参ヶ月の間
申しつけられ有る可く、普請の事簡要に候、仍て件の如し
元亀二 十月十四日 信長(御朱印)
細川兵部大輔殿
この城は平城であったらしいが、米田求政の進言により、城の外に二重堀を作り土居を築いて要害化したという。(米田家文書)
しかし、兼見卿記においては、元亀二年二月九日の条に「向細兵、皈(帰)城勝龍寺也、直ニ罷下、於路次云、西庄福知所ニ滞留也、罷向對談了、入夜歸宅了」とあるから、信長の書状の指示以前にこの地に入っていたことを伺わせる。
勝龍寺城は槇島城と共に信長の山城の二大前線拠点としての役割を担っていたとされる。
この城において嫡子・忠興は明智光秀女・玉(珠)との婚儀を行っている。
永青文庫命名の由来となった永源庵と青龍寺城は、まさに細川家根本由来の処である。