7歳で肥後五十四万石の太守となった綱利が、19歳となった寛文元年直接政務を取ることを許され、肥後への初入部のお暇を頂戴したのが今日二月三日である。三月二十七日江戸を発し四月二十八日初入国する。その初入部は例のない華美な行列が仕立てられ、国元のひんしゅくを買い側近のHが処分(知行召上)を受けるほどであった。
長く江戸に在って必ずしもその生活ぶりは褒められたものではなく、生母清高院とともに家老・松井興長から強烈な諫言を受けている。
それでも興長は大いに喜びを表し十数匹の馬を綱利に献上したりしている。そんな興長も六月二十八日に死去する。
五ヶ月にも満たない九月十八日綱利は江戸へ向かう。
翌年正月には龍之口邸が類焼で焼亡する。又その翌年の六月には松平讃岐守養女と結婚する。将軍家に繋がるこの婚姻は、少なからず財政逼迫の中の細川家には試練が待ち受けることになる。
田中左兵衛(氏久)の諫言なども出てくるが、興長の死に伴い大きな重しがなくなり、また江戸の側近を重用するなど、綱利の専制がますます広がっていくことになる。