韡村・木下宇太郎は、天明十五年二月廿三日 (朝晴、午時雨一陣)は侍講を勤めている
そんな中で取り上げているのが菊池家の事についてである。以下のように詳しく日記に書き記されているが、勉強不足の私は武時の姉君のことなどはとんと知らなかったが、こんな日記の記述で勉強することに相成った。
一、武時ニ一人ノ姉アリ隆盛
ノ女無雙の美人なりしかば、二条関白道平
公ニ召れて姫君一人を儲く、此姫君は後醍醐天皇の安福殿女御栄
子ト申せし也、肥後国菊池庄ハ二条関白師忠公の御封(ミふ)なり、師忠公は道平公の祖父ニましま
す、御封(ミふ)とは菊池郡の民戸三百戸にあれ五百戸にあれ其民の口分の租と
正丁中男の調庸を合せて賜ふなり、されハ租庸調は二条殿に納め、地と民とハ菊池氏の有な
り、依て二条家ハ領家ト称し、菊池は地主とも地頭とも云、二条家の領の下司職となりしなり
男子十五人あり、長男肥後守武重、次男掃部助武敏、三男肥後三
郎頼隆、四男對馬守武茂、五男八郎経重、六男阿日房隆、七男
七郎武吉、八男豊田十郎武光、九男彦次郎武義、十男武尚、十一
男豊田武豊、十二男肥後次郎武士、十三男肥前守武隆、十四男肥
後守武澄、十五男武方と云 ○鎮西探題□条英時の時は博多の津
ニ城を築て住セリと鎮西要略ニミゆ
右玉石雜誌と云書近比ノ著撰と見へたりニ在り、柳庵栗原
信充
武時の姉が隆盛(西郷隆盛のご先祖)に嫁してなした女子が二條関白道平に召され、其女子が「安福殿女御栄子」という事であろう。
ネットで検索すると「安福殿女御栄子」なる人物は、下記のように説明されている。
「南北朝時代,後醍醐天皇の女御。父は二条道平。母は西園寺公顕(きんあき)の娘。正慶元=元弘2年(1332)後宮にはいり,
女御,従三位となる。安福殿女御とよばれた。天皇の没後は出家して梅津の比丘尼(びくに)と称した。」
これ等の事は「菊池家系図」を眺めても伺い知れない。女系の情報が乏しく、韡村先生の講義をして承知することと相成った。
「木下韡村日記」に感謝・・・