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Channel: 津々堂のたわごと日録
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■わずかばかりの運の悪さと・・・

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〇 下村巳安  三斎様御附中津ニ相詰候衆 二百石 (於豊前小倉御侍帳)
            「伝蔵か父ハ下村己安と申候而山本勘助か孫也、勘助河中嶋ニ討死いたし候時、嫡子・二男
             共ニ討死、三男ハ幼少ニ有之候しを、家女かくし置、後ニ下村安笑と申候、其子下村己安三
             斎君於豊後召出、御知行三百石被下、伝蔵も部屋住の時より百石拝領、八代江も被召連候、
             原城後百石御加増、後ニ伝右衛門と改申候、三斎君・立允主も御死去後、丹後守殿ニ相勤、
             其後御暇申候而熊本二而致病死、其子孫当時南郷一領壱匹下村伝右衛門也」

〇 下村傳蔵(巳安子) 三斎様御附中津ニ相詰候衆 百石 (於豊前小倉御侍帳)
             「弐百石--下村傳蔵 右者松井右近子孫作ニ志うと(舅)ニ而御座候」
                    (正保三年三月十六日付・八代侍衆知行高之覚--丹羽亀之允言上之覚・所収)
〇 下村順庵  外様御医師 南郷 七人扶持 (御侍帳・元禄五年比カ)

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 上記の如く「於豊前小倉御侍帳」に、武田信玄の軍師と伝えられた山本勘助の孫「巳安」とその子「傳蔵」父子が細川家に仕えた消息が見える。
又伝蔵(後・傳右衛門)の子、順庵の消息が「御侍帳・元禄五年比カ」で見受けられた。
しかしながらこの三代以降、その後の消息は細川家の侍帳では途絶えてしまっている。
「巳安」に関する下記紹介記事にある「其子孫当時南郷一領壱匹下村伝右衛門也」を頼りに、「近世大名の領国支配の構造」を眺めてみると、p185に「下村勘兵衛」の項があり、「一領一疋・下村傳右衛門」の先祖附が紹介されていた。
「巳安」の記事にある通り、息・伝蔵は三齋に仕えており、天草島原の乱では細川立允に従って活躍している。
立允・三齋亡き後、宇土細川家の創立と共に宇土へ移り、そのうちに江戸詰めを申し渡されたが傳蔵は齢を重ね、「難相勤」主命を断らざるを得ない状況であったらしい。
そして江戸詰めをお断りし知行をも差し上げて宇土細川家を退去している。
主命をことわるということは、こういう結果を招く。時のめぐりあわせとはいえ、運の悪いことではある。
傳蔵の子・勘兵衛(順庵)も宇土細川家に仕えたが、父・傳蔵の牢人に伴い共に熊本に居住していたが、医業の心得があったことから、阿蘇南郷の御郡医師に仰せつけられた。
ここまでが細川家の侍帳が記す所だが、これらの人々を含め「近世大名の領国支配の構造」記載の先祖附に於いて詳細に知ることが出来る。
以降子孫は一両一疋の身分となり、中には惣庄屋などを努めたりしている。


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