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Channel: 津々堂のたわごと日録
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■谷主膳という人・細川家と山家藩谷家との因縁

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 最近ご紹介している「元和拾年(1624) 萬覚書」に、三月三日の記事を最初として、度々「谷主膳」なる人物の名前が登場している。どうやら奥方に関する慶事らしい。

         一、谷主膳殿御内儀、御よろこび候ハヽ、上方へ御小早可差上候、其時、沢村大学(吉重)方へ可相尋 御意ノ事

この谷主膳については「谷衛則か」と注記がある。この人物は、丹波山家藩の第2代藩主・谷衛政の四男である。
父・衛友は細川幽齋を歌道の師と頼む人物で、心ならずも幽齋の田辺城籠城の際は攻めての一員となっている。
しかしながら「空鉄炮」を放つなどして取り繕い、後に徳川家に対しては細川忠興の取りなしによって、丹波山家藩も安堵された。
この衛政の家督や財産分与については、衛友の遺言にもとづき細川忠興は大いに抵抗している。
しかしこのことは幕府の裁断により、忠興の意図するところには落ち着かなかった。
詳しくはここに触れることはしないが、下記の論考を参考にしていただきたい。
           「細川家史料にみる山家藩谷家御家騒動記」
衛政の家督や財産分与について、細川家は大いに不満を漏らしているものの、その四男・主膳を家臣として召し出しているのも不思議な話ではある。

細川家には、衛政の弟・衛長(谷内蔵之允)も元和九年に召出されており、幽齋室の実家・三渕家の初代重政の妹・幾久が嫁いでいる。
主膳は衛政の四男であるから、衛長とは叔父・甥の間柄であるが、上の「谷主膳殿御内儀、御よろこび」とあるのは出産でもあろうか。
この「御内儀」とはウィキペディアの「谷衛友」には娘と紹介されているが、そうなると甥が叔母を嫁にしたという事になるが・・・

「元和拾年 萬覚書」の編者は推測の意をもって「谷衛則か」とされているが、如何であろうか。

又、後年、細川家が熊本入りした後、寛永十年(1633)細川三齋は「女持不申候者」を探している。
これは、三齋付の家老・村上景広の娘の婿を探していたことが判るが、7名の人が忠利によって報告されている。
この中に「谷主膳」の名前が見える。これはどうしたことなのか。元和十年の記事「谷主膳殿御内儀、御よろこび」云々の御内儀が誰なのかは別としても、この時期谷主膳に奥方がいたことは間違いない。そうすると「女持不申候者」の谷主膳は明らかに独り者であるという事からすると、先の奥方は亡くなられたのか・・・
寛永十五年(1638)の天草島原の乱では一手を引き連れて活躍している。
先祖附も残っておらず、絶家したものと思われる。いろいろ詮索したくなるところだが、詳しい資料に出会わない。




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