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Channel: 津々堂のたわごと日録
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■天草切支丹残照、ネコの島「談合島」etc.

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                     Yushima-kumamoto.jpg ウィキペディアから

 天草島原の乱を前にして、有馬勢・天草勢がこの島で談合したことから「談合島」と呼ばれているこの島は、島原湾にぽっかり浮かぶ上天草市大矢野に所属する島で正式には「湯島」と呼ばれる。特段これに関する史跡が残されているようでもないが、熊本県民には「談合島」と親しみを以て呼ばれている。
一方「猫の島」とも呼ばれて、昨今多くの観光客が訪れるらしい。また周辺海域にはイルカが遊泳しており、こちらも観光船などが出て賑わいを見せている。

 益田四郎はその際、天草四郎と名乗ったと言い伝えられている。あちこちの観光施設で見る「天草四郎像」は、まだ元服前の若者の髪の形をしているが、ある資料によると陳佐左衛門の手に懸り落された首は「茶筅髷」であったと伝えられる。
また「鉄漿(かね=おはぐろ)」を引いていたとも伝えられ、いささか印象を異にする。

 有馬勢が松倉氏に反抗して原城に篭ると、天草切支丹は大挙して島原湾を渡り有馬勢に合流する。
有馬勢も旧有馬氏の武士であったものや農民など切支丹が多い中、四郎が渡海して原城に至や、一揆の首領に祭り上げられた。
「鉄漿」は貴人のたしなみの一つだが、四郎の周辺に優れた演出家がいたのであろう。

談合島での会合は、寛永14年10月24日だとする説が有力だが、有馬勢が島原の代官を襲い一揆ののろしが上がったのはその直後である。
島原勢は松倉氏の苛政に反抗したが、天草切支丹の一揆は唐津藩の富岡城城代・三宅藤兵衛を殺し、勢いを得て富岡城を二度にわたり攻めるも落城させるにはい当たらず有馬へ渡海する。
それ以降の悲劇は皆さまご存じのとおりである。談合島にしろ、富岡城や原城跡、島原城など380年余をへて多くの観光客の歓声は、悲惨な歴史を忘れさせている。


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